聖書概論

第一課

聖書の研究には、色々な方法がありますが、その中で最も興味深い研究方法は、
聖書の構成を学んで行く方法であると思います。
私は、いつもこの角度から聖書を研究し、分析し、解し、神の言葉と称するこの文書を、
何という素朴な方法で、神が構成したもうたかに、玄妙を感じつつ、大きな喜びをいだいているものであります。
確かに、主の御手が、この文書の構成法に働いているのが解ります。
先ず最初に聖書とその構成に、概括的な眼を向けることにしましょう。

第一章  六十六巻の文書

(1)旧約聖書は、29巻、新約聖書は、27巻であります。
(2)イザヤ書。救いの書といわれ、聖書の巻数と同数の章をもっています。

イザヤ書が顕著な点はそれが1巻の小聖書と見える点にあります。
この式で本書を読んで見て下さい。本書の1章を聖書の1巻に当てはめて、
読んで行くと、ほとんどこれ等の章に、なるほど聖書と同数である訳だと思える証拠があるのです。
 
イザヤ1:10節ソドムとゴモラの記事があります。一方創世記 (最初の巻) には
ソドムとゴモラの町のことが問題に挙げられてあ

イザヤ書2章は、大体に、威張っている人間と、偶像を廃棄することが記してあります。
一方出エジプト記 (第2巻} には、パロが屈服し、偶像が審判されるのを、 霊的な研究者はお解りになると思います。
イザヤ書第6章には、不思議な神の異象が神の宝庫にありて、セラフィムが

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」

と賛美していることが書いてありますが、他方ヨシュア記 (聖書第6巻)5:16節には、ヨシュアが
一人の男が剣を抜いて立っている異象にあったことが、、記されています。

イザヤ書40:3節には、バプテスマのヨハネの現れることが書いてあります。
他方40巻目となるマタイ伝には、バプテスマのヨハネの記事が現れているのです。
イザヤ書66:22節には、新天新地のことが書かれてあり、他方聖書の第66巻目 黙示録21:1節には、
同じ内容のことが記されています。

第二章  聖書各巻の分

次のごとく、旧約聖書と新約聖書の間には、はっきりした類似点があります。

  旧約聖書               新約聖書
神の律法または原理の書         
モーセの五巻(創世記–申命記)     四福音書  (マタイ?ヨハネ)
指導原理、 ヨシュアの行動記      使徒の働き
歴史詩歌  (士師記–ヨブ記)     書簡   (ロマ書–ユダ書)
大、小、預言書(イザヤ書–マラキ書)  黙 示 録

第三章  神の啓示の進展及び完成

(イ) モーセの五巻

*第一巻の創世記に於いて人類の堕落の歴史を読み、
 第二巻 出エジプトに於いて人類の贖罪
 第三巻 レビ記に於いて、贖罪の人類が礼拝している。(これは罪を贖われた人間の当 然の結果です)
 第四巻 民数記は荒野の書となるのです。人間が罪を贖われると、神を礼拝し、
     礼拝するとこの世に長生きします。
この世は荒野であって試練を受けるためなのです。

モーセの五巻の最後は、申命記であって、モーセの教えの摘要です。
モーセがイスラエルの子孫に、神に言葉に従順であり、かつ守ることを勧告しています。
このように見てくると実に興味のあるものです。

(ロ)新約聖書の四福音書

これは、同じような内容であっても、必ずしも、モーセの五巻のごとく進展の道をたどっては居りません。
しかしながら四福音書各書は、相互は補足しあっていて、その全体として、キリスト
の高い地位、人の子に対する色々な御使命の数々を、充分に完全に啓示するように出来ています。

マタイによる福音書ではキリストはユダの獅子、即ち王として マルコによる福音書では、
人の子の重荷を負う、謙虚なしもべ、奉仕者であり、 ルカによる福音書では、弱い器を守り、
婦人や子供をいたわるまことの完全な人として 表現してあります 。

そしてヨハネによる福音書では、肉となった神、真理の人、同時にまことの神である キリストが見えております。

第 二 課

モーセの五巻の分析

(イ)その教義の概要
(ロ)その内容の概括

(い)モーセの五巻の概要
 イ  創 世 記 =初巻、特に罪とその結果
 ロ  出エジプト記 =罪人の血による贖罪の巻
 ハ  レ ビ 記 = 贖いを得た者の礼拝の巻
 ニ  民 数 記 = 贖われた礼拝者の荒野に於ける経験の書
 ホ  申 命 記 = 神のみことばを実行する事

(ろ)その内容の概括

第 一 章

創世記 教義  神の救いの条件下に於ける人間の失敗

八つの起源(八つの始まり)

 物質的宇宙の起源   1:1?1:25
 人 類 の 起 源     1:26?2章
 罪 の 起 源    3:1?3:7
 贖罪に於いての啓示の始め 3:9?3:24
 人類の家庭生活の起源   4:1?4:15
 神なき文明の起源     4:16?19章
 世界の民族の起源     6:10
 原語混雑の起源      11章
 へブル民族の起源     12章?50章
 
第 二 章

 出エジプト記  教義  血の贖罪

 イ 神の選民の捕囚(奴隷になること)
 ロ 神の召命、モーセの使命      2章
 ハ 指導者としてのモーセが神の訓練  3章
 ニ モ ー セ 対 パ ロ の 論 争      4:5、及び7:11
 ホ 贖罪における、神の目的啓示    6章
 へ 血を塗る過越の祭         12章
 ト 神の御用にと長子を残す      13章
 チ エジプトよりの旅         14章?19章
 リ 神の律法の方法及び、その精神   20章?24章
 ヌ 契約の幕屋、材料、器具及び礼拝  25章?40章

第 三 章

レビ記 教義 贖罪を済ませたる聖き命令

イ 五つの献げもの(救い主の種々相より献げらる)

   1)燔 祭=1章(献身)
   2)素 祭=2章(聖き生活) 
   3)酬恩祭=3章(神の前の饗宴)
   4)罪 祭=4章(キリストの身代わり)
   5)咎 祭=5章(不知の罪の贖い)

ロ 五つの祭りに関する施行法     5:8?6章

ハ 祭 司 職            8章?10章

ニ 聖めの法律、及び、その他の法典 11章?27章

第 四 章

民数記 教義 贖われた礼拝、試練中尚、神に仕える

 イ 戦 時 中           1章
 ロ 整頓された幕屋         2章
 ハ 契約の柩の幕屋         3章、4章
 ニ 聖き幕屋            5章
 ホ ナザレ人の生活         6 章
 へ 受け給わぬ献げ物        7章
 ト アロン式、レビ式礼拝      8章
 チ 過越節の規則          9:1?9:14
 リ 雲 の 柱           9:15?23
 ヌ ラッパ 吹奏法          10章
 ル 八つの文句(つぶやき)
     道について         11:1?3
     食べ物について       11:4?35
     指導者について       12 章
     土地について        13章、14章
     神の審判について      14:39?45
     神の約束について      16章17章
     かわき(渇き)について   20:2?13
     再び食べ物について     21:4?6
     (モーセ青銅の蛇を挙げる) 21:8、9
 ヲ 王等に対する勝利        21:1?3、21?35、 31章
 ワ バラムとバラク         22章?25章
 カ モーセの後継者としてのヨシュア 27章

第 五 章

申命記 教義 従順の必要

申命記は、復習の書であって、モーセは8回の説教をもって、それらの歴史を イスラエルの子孫に告げている。

 第一回目  反 省      1:1?4:43
 第二回目  復 習      4:44?26:19
 第三回目  警 告      27:1?28:68
 第四回目  約 束      29:1?30:20 
 第五回目  会 議      31:1?23
 第六回目  教 示      31:24?29
 第七回目  歌        31;30?32
 第八回目  祝 福      33章
       モーセの死    34章

第 三 課  レビ 記

私達は創世記に於いて、それは創始の巻であって、あらゆる事情の許に、
人類が 全く失敗堕落していることを学びました。次に出エジプト記は、贖罪の巻であって神が、
堕落した人間を、どのように救出したもうたかを学んだ。今や、私達は第三の巻をひも解く時となったのです。
進歩の道程を歩いているのです。

この巻は礼拝の書物なのです。人間が堕落失敗から贖い出された、即ち、神の愛によって贖われたので、
その喜びは当然礼拝となるのです。
レビ記と出エジプト記との関係は、パウロその他の書簡と福音書の関係と似ております。
即ち福音書は救いに入る福音の深い原理を示し、書簡は避けて通るべき落とし穴を指し示して、
それを避ける為に主イエス・キリストを礼拝し、礼拝し得る高さに喜びあげられる信者の信仰が書かれているのです。

出エジプト記では、自分は贖われたと信者は知るのです。エジプトから救われたと感じますが、
レビ記ではもう自分は贖われている。
今は礼拝をすること、礼拝の精神、規則を 学ぶことだと思うようになるのです。

レビ記は下記の二つに分類できます。

  (イ) 1章?5章   礼拝に供える五種類の献げ物
  (ロ) 6章?27章   祭司職及び祭司職の服務規定

これは概論でありますので、あまり深く掘り下げて、驚くべきその礼拝原理までは研究できません。
ことごとく礼拝と礼拝の中にある原理を指し示しているのです。
五つの献げ物は、キリストを五つの方面から描いています。福音書に於てマタイ伝からヨハネ伝まで、
異なった方面からキリストの四つの絵を描いているようなものです。

今回の講議で五つの献げ物を簡単に説明し、その一つ一つについてちょっと申し上げるつもりです。

 (イ) 燔 祭

第一章

これはキリストが、ご自身を全く神に献げ給う絵なのです。他の四つと異なるところを悟って頂きたいのです。
「もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは」(2節)という節の言葉に特に御注意下さい。
これは強いて献げ物をしなさいというのではない。自由な意志で捧げるベきだ、という意味なのです。
それと同じように、キリストは強いてでも強いられてでもなく自ら進んで、己が身を献げ物とされたのです。

  (ロ) 素 祭

第二章

この献げ物はキリストの日常生活、主の伝道、主の死よりも主の生命にあるキリストを意味するものです。
他の四つの献げ物はキリストの死を意味するものですが素祭は、キリストの若い時代の生活を指すのです。
この献げ物の内容を注意して見て下さい。精製された麦粉と、油と、香物です。
これらの内容はキリストの生活の不思議な徴です。

第一、精製された小麦粉、これは普通の麦粉ではありません。精製品です。
固まりも 堅い所もなく、純良の粉です。この粉を用いてケーキをこしらえる時は、
細かい、振いを使って、きめ細かな美しいものを用います。
固まりがあったり、異物が混入していたら、良いケーキは出来ません。
ですから精製された小麦粉は、キリストの完全な人性を表しています。
偏見も、固定観念も、外国の観念も入っていません。ことごとく聖く、どの方面 から見ても完全で、
神の欲し給う様な人性でした。

油は聖霊を意味します。乳香は不思議な香りでキリストのキリストの生活の美しい香りです。
素祭の取扱いについて、4節に私達はまた驚くべき点を見るのです。
油を混ぜた小麦粉の種を入れないパンです。
それと「油注がれた者」の対照です。キリストはマリヤの懐から、聖霊によって生まれたのです。
振われた粉に、油が混ざったことを意味します。主の洗礼を見ると、油を混ぜた種入れぬパンを思います。
その洗礼に於て、キリストの完全な人性は、聖霊に油注がれています。

  (ハ) 酬恩祭 

第三章

この祭りに於て、私達は、またカルバリ山に帰ります。
ここで人なるキリストによって、神と人との間に平和が成立したのです。

  (ニ) 罪 祭 

第四章

後の二つの献げ物は、罪のためにする供え物で、両方ともキリストの血を通してのみ、
聖なる神に近づき得ること、血が流されないでは罪の赦しがないという様に、
血が流されないでは罪の赦しがない、という様に、血からできているのです。
今一つ不思議な点は罪祭の祭り方です。

「その雄牛の頭の上に手を置き」(4節)

に目を留めて下さい。これは自分の息子の罪を、責任をその息子に代わって死ぬる被害者に転嫁することを意味します。

  (ホ) 咎 祭

第五章

神の罪に対する処置は、犯罪人にためばかりではない。
罪の根本性質に食い入っている罪に対して、備えてい給うのです。言葉を変えて言えば、
罪は二つの方法で人類を犯すものです。

一つは良心の罪であり、他は生命に食い込んでいる罪です。
感謝すべきかな。神はこの両方の罪に対して準備をして下さるのです。
犯した罪を告白することと、カルバリを仰ぎ見ることによって、罪は赦されているのです。
毎日カルバリを見ると、私達の内面に巣食っている罪の原理にも、打勝つことが出来るのです。
       

 終 講

このような短期間の講議では、聖書の各巻について概論をして行くことは難しい。
私は創世記と、出エジプト記と申命記について、その性質をあげ、分類するのに努力をしてきた。

それで今回は、残りのモーセの書簡と、新旧約の幾つかについて、僅かながら、
参考になる点を申し上げて見たいのです。
民数記は、荒野の書巻なのです。
創世記では人間の堕落を、出エジプト記では血による贖いを、レビ記では、
五種の献げ物による、神の礼拝を学んで参りました。

民数記では、贖罪の済んだイスラエルの民が、荒野の試練に会うことを学ぶのです。
それは信仰がなかったり、足りないものだから、神は荒野に彼らを導いて、
四十年間、迷い歩かせるのです。
彼らの悲しい失敗を学ぶのもまた興味ある研究です。民数記では、聖書のどの巻にもない程、
多くの不平、つぶやきを見ることが出来ます。次を見て下さい。

(A)  神の導きに対する不平。       11:1?3
(B) 神のお与え下さる食料に対する不平。 11:4?35
(C) 神がお選びになった、指導者ヘの不平。12章。
(D) 神のお与え下さった土地への不平。  13、14章
(E) 神の正しい裁きヘの不平。      14:39
(F) 神の油注ぎについての不平 (ダタンとアビラムの反乱)16、17章
(G) 渇きに対する不平         20:2?13
(H) 神の供給に対する不平。      21:4?9

これからき教訓を学びたいと思います。
そうするとどんな事情があって不平を言っているにしてもその不満から救われる道や、
不平不満が、どんな結果を生むものであるかが解ってきます。

申命記は、モーセが、神のイスラエルの民を取り扱い給う道を、振り返って見て、
実際に、八つの講議として教えています。

ヨシュア記は、克服の書巻であって、学ぶべき、素晴らしい記事があり、霊的興味ある事実が沢山あります。
士師記は、堕落の書巻であって、読者を震え上がらせ、その失敗の後を踏ませぬように
戦き恐れさせるものがあります。
ルツ記は、キリストとその花嫁である教会との関係を描く、愛情の物語です。
第1サムエルからエステル書までは、イスラエルの民の歴史です。
ヨブ、箴言、詩篇、伝道の書は、多くの尊い珠玉を持つ、詩歌の続編です。
イザヤ書から、マラキ書までは、預言者として知名な人がイスラエル民族の将来及び
イエス・キリストとその神の国について預言したものを編纂したものです。

 新約聖書は、マタイからヨハネに至る四福音書と、初代教会の歴史である使徒の働きとロマ書からユダ書に至る、
21 書簡と、偉大なる預言書である黙示録と称せられる最後の書とでなっています。

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