真理に生くるもの

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネ伝8章32節)

自由を求めて


表題下の短い御言葉の中にイエス・キリストの福音が明らかに現れている。
この聖句を分解すると「真理」「あなたがたを」「自由にします」という3つになる。
福音という意味を一言で説明するならば「全人類を罪の下の生活より救い出すことである」につくせる。
不思議なことには世界のいかなる国に行っても、誰も彼も自由な境遇に憧れていることが符節を合わせている。
ただ自由を得るために、人々はあくせくと世を渡っている。

ある人は教育によろうとして懸命な努力を払い、ある人は骨の粉になるまで商売に励み、
または孜々として招来を楽しみつつ主人に仕えている奉公人もある。
これは皆が皆、やがて何にも縛られない自由を望んでの働きに違いないのである。
あなたもまた望みつつも、なお不自由な立場に煩悶してはおられまいか・・・。
でありますなら「こうすれば」あなたに自由の道は開かれてくる。


自由なき生涯の原因


自由のない生活の有様を調べるならば、病身である悩みも貧乏生活の不安も悲境の嘆きも
みな同じ原因に発していることが知られてくる。
しかし生ける造り主なる神様は初めからこんな不自由な人間に造りたもうたのではなかった。
開闢の初めには春の野辺の胡蝶よりも自由な境地におらしめたもうたのであった。
この事実を否定しては絶対に正当な論理は成立しない。

けれども創世のときから今に至るまで、人間の自由を嫉妬して、その得たものを奪い、得ようとするのを妨げ、
神と人間の交通を破ろうとする妙な力「悪」が潜在する。
聖書はこれを悪魔と呼びサタンと唱える。諸君もその存在をお認めになられるであろう。
このサタンの働きが吾人に及んで「罪」が臨むのである。
主イエスがこれにつき
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。 」(ヨハネ伝8章34節)
と御断定を下したもうたのである。

諸君よ、この実に真理のこもった御言葉に耳を傾けられよ。・・・けれどもある人は「これは真である事を認めはする。
けれども自分は罪の奴隷ではない、自由を奪われてはいない、決して罪を犯してはいない」と君子人たる事を自称するが、
神の仰せたもうた事は「全て」である。もちろん全てとは残らずの意味であるから1人もこれに漏れるものはないのである。


なぜなら聖書は
「・・・われらすでにユダヤ人もギリシヤ人もみな罪の下にあり・・・義人なし1人だになし・・・」
と宣告するからであって、またこれは金輪際、間違いのない真実であって、実に罪を犯すものは罪に縛られた奴隷である。
昔(今でも名目と形式を変えて行われているが)人間が人間を品物か鳥獣のように市場にまで出されて売買された時代があった。
今でもサタンは全人類をことごとく奴隷として己の配下に従わせているのである。
自分が自由であると自称する人が神に従っていないとすれば、何と言っても悪魔の奴隷として、
その配下に支配されているのである。


ある実話


過日こんな話を聞いた。・・・ある職人があった。
彼は、その日も一日の仕事を難なく終えて家路についた。彼は結婚したばかりの若者であった。
楽しい新世帯で彼の帰宅を待ちわびている新妻に一刻も早く会いたいと心急いで近道を選んだのだかどうかは分からないけれども、
ともかくめったに人の通らない道を帰ってきたのであった。
すると、その道端に腐れ朽ちた古井戸が草むらの中に隠れてあった。
いそいそと足を運んでいた彼は不覚にも足を滑らせて落ち込んでしまったのであった。

井戸は深かったが幸いに水は少なかったので命に別状はなく、また大した怪我もしなかったので
「まぁ良かった」とひとまず胸をなでおろし、辺りを見回しながら、一時はその不自由な天地を考えて困った事になったとは思ったが、
「何、今に誰かが通りかかったら助けてもらおう」とのんきに考えて待っていた。

しかし前にも言ったとおり、めったに人の通らない道の事、待てど暮らせど何人の足音も聞こえてこなかった。
彼は焦りはじめて、丹念に這い上がる方法はないか、抜け穴でもないかと探したが、
もともと井戸として掘ったのであるから探すほうが無理で見つかりようはない。

どんなに飛び上がってみたところで翼のない人間の悲しさ、鳥のまねをしてみても2秒間も飛んではおられない。
途方にくれた彼はやたらに元気を出して落ちては這い上がり、滑っては這い上がりしてみたが、けっきょく無駄な努力であった。
日は暮れる、腹は空く、ついに彼はたまりかねて「誰か助けてくれぇ・・・」と大声に叫んでみたのだったが、
ただ暗い夜空とがらんとした深い井戸の中に響くばかりで人の耳には入らなかった。
続けて続けて、繰り返し繰り返し助けを呼んだがやはり無駄だった。

しだいに疲れてきて冷静に帰った彼は「今夜一晩叫んでみたところで無駄なことだ。
仕方がないから翌朝まで待つことにしよう・・・」と思いなおして、立ったままで物思いに沈んだり、
おりの中の獣のようにいく十回となくぐるぐる回ってみたり、冷たい壁に寄りかかってとろとろとまどろんでみたりして、
1年も過ぎたと思われるほどの長い気持ちで夜を明かした。
朝日も昇ったようだと思って、また「誰か助けてくれぇ・・・」と叫んでみたが、
チチと鳴く小鳥の声が応えるばかりで、あいにく人は通らなかった。

一日中にどれだけ助けを呼んだか分からない。
ついに一人の人の耳にもその声が入ることなしに日が暮れてしまった。
遠くの工場の鳴らすサイレンや寺の鐘の音は井戸の底まで届くのに、彼の声のみはどこの誰にも聞かれなかったのである。
情けなさと寂しさとで胸はいっぱいで、頑丈な若者のこぶしは幾度となく涙のほほを擦ったことであろう。

昨日の無駄な努力を知る彼は、昨夜と同じ夜を明かした。
翌朝になって、また昨夜と同様な事を繰り返し、2日、3日、4日、5日と井戸の底で暮らしたのである。
いくら考えても自分1人では助かる道を発見する事はできなかった。
と言ってつかれきってしまった彼には声も出せなくなった。
例え井戸の近くを何人が通ったとしても、渇ききった彼の喉のうめきを聞きつけるほど耳さとくはないであろう。

彼はまったく悲観して「死んだほうがましだ・・」と思ってはみるが、自殺する方法も殺される方法も、飢えて死ぬよりほかに見出せなかった。
いないな死ぬなんどと若い妻がどんなに心配していることであろうと思うと身も世もなかった。
考えて心配して、悲観して、煩悶としたあげくきちがいのようになってしまったが、幸か不幸かきちがいにはなりきれなかった。
???もしきちがいになれたら、いっそ苦労も悩みもなくて死ねたろうに。
そしてそのまま10日ほどの日数が明け暮れていった。本当の心では、どんなに生きたい彼だったか。
ただ死の一途の恐怖に震えながら、むりやりに死を待たされなくてはならなかった。


救われざる世の人の姿


諸君よ??諸君はこの話しをいかに考えられるであろうか。
あたかも現在の救われざる幾億の世の人々の霊魂の姿ではないか。
これらの人々が、それを自覚しているか否かにかかわらず、求めて止まない教育も、各方面の努力も、熱心も、
この真の自由を欲求している証拠に他ならないのである。
しかし、その求めるものを得られずに老いはててしまって「何もかも、もう駄目だ!あぁ仕方ない、こうなっては」
という有様で「死」を待つだけを余儀なくされているのである。
ちょうど井戸に落ち込んで救い手のない職人のように??。

だが11日目の頃に端無くも彼の通った小道を通り合わせた人があった。
その人は古井戸に目を止めて何となく怪しい有様を見て取ったので覗き見て、誰かが滑り落ちていることを知り、
さっそく警察署や青年団の手を煩わして半死半生の職人を救い出した。
行き届いた看護と十分な休養とで、元の元気を回復して、今も丈夫で働いているという。

キリストは十字架の上に御血を流して、我らの代わりに罪の刑罰を受けたもうて苦しめられ、神の正しきお怒りの手より、
すなわち罪人の必然を受けねばならない刑罰より救い出だしたもうご事業を成就なされて、
全人類を罪の奴隷の有様より解放されるので感謝ではないか。


真理は汝らに自由を得さすべし


ありがたいことである。
「我らを救う力は何ぞ」と言うならば、祈祷ではない、難行苦行ではない、修養や積善ではない、森厳な宗教儀式にあるのでもない。
世を挙げて賞賛を惜しまないほどの犠牲的行為であっても「罪の奴隷に自由を得さす」には何らの効果も空しいことである。

ただ十字架の血の事実のみは、すべて信じるものに「救いを得させる力」となるのである。
そうしてこれは、だれかれの差別なく何人もである。


きわめて謹厳な聖人君子でも、一世の師表と仰がれる偉人でも、この真理によらなければ自由は得られないが、
反対にあらゆる罪を犯した悪党の標本のような、悪と罪と汚れに満ち満ちた者であっても、
この真理によるならば罪の奴隷の縄目より自由を得られるのである。


しからば諸君よ!今、信じようではないか。過去における罪の記録をそのままに、キリストの十字架に託して信じようではないか。
??ただこれを信じる「信仰」は過去における失敗も罪も咎も許したもう約束を成就させ、新生した心と霊魂と、
許されて神の子とされる経験を与え、希望に満ちた生涯、光明に輝く生活、歓喜にあふれた毎日を送らせるのである。


真理に生きる


真理に生きる者とは罪の奴隷から開放されて自由人として生活する人の謂いである。
真理にただ一つ、あたかもペテロが「他の者によりては救いを得ることなし。
天の下には我らの頼りて救われるべきほかの名を人に賜いしことはないからである」
と断言した救いが、万古に絶対無二であるようにである。

しかしてその真理とは、イエスが

「我は道なり、真理なり、命なり。我によらでは誰にても父の身元にいたる者なし」

とご明言したもうたとおり、イエスキリストご自身である。
ゆえに真理が罪の奴隷を解放するとは、イエスの救いのことであり、
真理に生きるとは、イエス・キリストの生きることに他ならない。
しかして唯一の神キリストに生きることは、実に全世界を手中に収めた以上に価値があり、幸福なことである。

「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」??マルコ伝8章36節と。
諸君よ!ただイエスに生きられよ。

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