第6章
分割
(1)1~7 失ったおのが元に戻る
(2)8~12 エリシャの識別の霊
(3)13~17 エリシャの召し使いの目の開けられたこと
(4)18~23 スリヤ人の目くらむ
(5)24~33 サマリヤを攻撃した。
(1)1~7 失ったおのがもとに戻る
これは信仰生活における実際の経験であるので、私の好む物語である。いま詳細に研究しよう。
a.神の働きが前進する願い。
「私たちがあなたと共に住んでいるところは狭くなりましたので」1節。
彼らは続けて今の状態は十分でないので、その働きをもっと大きくしたいと願った。
これは良い徴候であって、神の人はいつも発展、前進することを渇望しなけれならない。
b.めいめい1本ずつ材木を取ってきて(2~3)
神の働きは一個人の努力、犠牲によって前進するものではなく、
めいめい即ち男女すべての人が主の働きにおいてその責任を果たすことにより前進する。
c.準備中の失敗(4~5)
材木を切り倒している時、おのの頭が水中に落ちた。運悪くヨルダン川は深く、
おのの頭は川底に沈んでいった。おのを使っていた人は叫んだ。人からの借り物であったので責任を感じた。
d.「それはどこにおちたのか」6節
霊的失敗をした時、為すべき事を示すための重要な質問である。第1ヨハネ1:9
「もしも私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、
その罪を赦し、全ての不義から私たちをきよめてくださる」との御言葉に応用することが出来る。
これは目立った罪、全ての罪でもなかった。一寸したあやまちであった。
しかし、そのおのが借り物であったので、その紛失は不義の行為として数えられるであろう。
e.落ちたおのを弁償するために救い出すことは、また非常に興味深い、意味深い物語である。
これについて述べよう。
イ.一本の枝を切り落とし・・・カルバリーの十字架の型
ロ.そこに投げ入れる・・・十字架。失敗の場所に投げ入れたことによって、それを表す。
f.勝利・・・「そのおのは泳いだ」(英訳・・日本語訳では、そのおのの頭を浮かばせ)
おのはヨルダン川の泥のそこに深く入っていたかもしれない。
しかし十字架の力がそこに働いた時、変化が起こった。おのは泥から離れた。
これは明確に復活の絵だと思う。おのが埋ったことは墓に葬られたことになぞらえることが出来る。
しかし今、神の力が働いた。水面におのが浮かんだばかりでなく「それは泳いだ」と記されている・・・前進した。
8~12 エリシャの識別の霊
ここにエリシャのもう一つの例がある。
スリヤ王の計画、行動、考えを、神からの黙示と認識の霊によってエリシャは知った。スリヤ王は心を悩まし、
誰かが敵対していると考えた。しかし、これは生ける神の力によったのである。
黙示の霊は預言者に働き、預言者を通してイスラエルの王に知らされた。
(3)13~18 エリシャの召し使いの目が開かれたこと。エリシャの召し使いは目くらではなかった。
しかし彼は軍勢が馬や戦車をもって町を囲んでいるのを見た。召し使いはそれを見た時、
非常に心配した。預言者エリヤは16節に「恐れることはない。
我々と共にいるものは彼らと共にいるものよりも多いのだから」と言って祈った。
「主よ、どうぞ彼の目を開いて見させてください」。
召し使いは生来目が見えたが危機において千々万々の天使に包囲されているという
霊的視野を持つことが必要であった。
(4)18~22 スリヤ人の目がくらまされること。ここに再びエリシャによって霊の力の働きを見る。
この力を今の私どもが求めるならば、今日においても所有することが出来る。
(5)24~33 サマリヤの攻撃
これも私の大好きな物語である。6章24~30節と共に、特に7章を読んでください。
この物語の最初の部は、まず6章に関係する。即ち「激しい飢饉」である。
これは世界中の現代の未信者の状態である。彼らは良い食物があるかもしれない。
しかし福音に対して心が開かれていない。彼らの霊的食欲を満足させる方法、手段を知らない。
激しい飢饉で、ついにロバの頭や鳩の糞まで町で売られるようになった。
キリストについての知識の欠乏を述べることは不可能である。福音の影響の全然ない、
人類の悪しき、恐ろしい状態である。
★第8章 ソロモンの神殿
◎注意事項(1)
この8章には新約時代の教会を象徴する多くの原理が示されている。
それらの原理を調べよう。一節においてソロモンは主の契約の箱をかつぎ上ろうとして、
長老たち、全ての部族の頭たち、氏族の長たちを集めたことが記されている。
契約の箱は主の御臨在を表すものなることは周知の事であるが、新約には聖霊は人格を有することが表されている。
幾度も幾度も「彼の霊によって」「聖霊を通して」という言葉を読むことである。
聖霊の満たしとキリストの働きなくしての人の努力と働きは、単なる肉であって神に栄光を帰する事はない。
ゼカリヤ4:6「これは権勢によらず、能力によらず、私の霊によるのである」と主が告げられる。
これは牧師の働きであろうと、開拓伝道であろうと、全ての霊的働きにおいて
主の働きの重要な原理であるとして常に心に深く留めていなければならない。
警告の言葉はここに無いかもしれないが、これに関係あると見られる両極端がある。
その一つはこれである。即ち「先生、私は弱い小さいもので、何もする事が出来ません。
聖霊は働きをなすよう導きます」と。それは半分は真理であるが極端である。
もう一つの極端は、私は全力を尽くして働きます。
この働きが成功するように一切を出来るように堅く決意しています」。これも半分は真理であるが極端である。
主に対して完全に従わねばならない。
また我を用いたまえと全く主に降参していなければならない。
主の働きは勢力と聖霊の力によってなされなければならない。何もしない事は賢明ではなく誤りである。
同様に自己の努力にのみ頼る事も誤りである。私どもが、どんな良い才能に恵まれていたとしても、
聖霊の導きが無ければ誤りである。
ゼカリヤ書の「わが霊による」というのも同様の考えであって、ヨハネ1:13
「それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらず、ただ神によって産まれたのである。」神によってとは即ち聖霊によってである。
◎注意事項(2)
先に少し述べた事であるが旧約時代には幾度も多数の犠牲が献げられ、
量の故に多くの血が流された事を述べてきた。新約では幾度も生け贄は捧げられなかったし、
多量の血は流されなかったが、しかし人類の罪のために一度だけ死にたもうた
主イエス・キリストの比類なき真の御宝血であった。そこで5節をもう一度読みなさい。
「羊と牛を捧げたが、その数は多くて調べることも数えることもできなかった。」
◎注意事項(3)
7節に記されてあるケルビムの働きについて調べよう。「ケルビムは翼を箱のところに伸べていたので、
ケルビムは上から箱とそのさおを覆った。」
また次には、この箱の中には2つの石の板の他、何もなかったことを述べている。
この2つの石の板は十戒が神の指によって書かれたものである。(即ち神に対する戒めと隣人に対する戒めであった。)
十戒をおさめたこの箱をケルビムが覆ったのは、このおきてを守ることである。
◎注意事項(4)
10節?11節「雲が主の宮に満ちた」
これは主の宮の典型的状態である。また聖霊教会のあるべき自然の状態である。
が、この標準にまで我々が到達しているかどうか疑う。しかし、それは心配するものではないが、
聖霊に対して自分自身従うように心を感動させ、起こすべきである。
あらゆる事にわたってキリストの御宝血を主張することは神に完全に栄光を与えるものではない。
我々がここにおいて、また会衆が一致して神を喜ぶ結果、主の栄光は強く表され、
普通の集会は神の濃厚な御臨在の故に、さしあたり延長され、非常に強く主の栄光が表されるのである。
◎注意事項(5)
献堂におけるソロモンの説教(12節~21節)
a.ソロモンは宮の建築の歴史を人々に説明した。若いクリスチャンには彼らに対する神の御業について説明する必要がある。
これは彼らの救われるための説明ではない。彼らは知識ではなく信仰によって救われている。
しかし救われて後、神は如何に民たちを取り扱われるかについての知識と悟りによって、信仰の上に立てることは必要であった。
b.この説明の中に、主に対して宮をたてたいという念願は、ダビデがその心に持っていたことを強調している。
しかし神の高い御計画は、彼の息子のソロモンがこの働きを成就することであった。
c.「そして主は、その言われた言葉を行われた」。主が約束された如く、20節には3回、神の言葉が強調されている。
即ち、主は言われた。
言葉を行われた
主が言われたように
◎注意事項(6)
献堂におけるソロモンの祈り(22~61)
a.至高にして最高なる神を認め、神の契約と言葉に感謝す。(23~24)
b.神の契約を続いて守られるよう願って祈る。(25節)
c.神の言葉の確認について求める。(26節)
d.「しかし神は、果たして地上に住まれるでしょうか」
更にソロモンは比べて言った。「天も、いと高き天も、あなたを入れる事はできません」。
神の広大無限なることを示している。その無限なる神がソロモンの建てた宮に満ちて下さったことは、
神の驚くべき謙遜なる御態度を表している。(27節)
e.この宮に向かって「夜昼」続けて神の愛と祝福のあるように祈る。
(ソロモンの宮はたくさんの人々が集会することができる神殿ではなかった。むしろ神の御臨在を知る御座は、狭い処であった。
今日、教会に多くの人々が集まる如く人々は集まらなかった。)(28節)
f.民たちが失敗する様々の状態について神の前に列挙する。
x.隣人に対する罪 31節
y.敵の前に敗れたとき 33節
z.日照りの時(罪の故に雨が降らないとき)35節
xx.飢饉、疫病等 38節
yy.戦いの時 44節
zz.罪を犯した時また捕虜になった時 47節
ソロモンは以上の如き場合、民たちが悔い改めて神に立ち返るならば、彼らを赦されるよう神に願う。
マルコ3:28,マタイ12:31を見よ。
民たちに対する神の大いなる哀れみを示す記事の節を注意深く読みなさい。
特に次の節を注意して読みなさい。
32,34,36,38,39,43,45,46,48,50,52(以上の各節)
◎注意事項(7)
犠牲と喜び(62~66)
牛・・・2万2000頭
羊・・・12万頭
この恐ろしいほどの量を想像することができるでしょうか。
★第10章 ソロモンと女王シバ
a.更にこの書の非常に重要な章に来た。
これは一つの歴史物語ではあるが、非常に意味があり、霊的に香りの高い教訓を含むものである。
今日の教会生活に大いに適用されるべき教えがある。
同一物語が歴代史下9:1~12にも記録されているから、
更に詳細を知るためにも、この記事も読んでいただきたい。
b.イエスはマタイ12:42において、シバの女王の引照を用いている。
彼女の地理上の場所を表すとき、「南の女王」として述べている。
更に彼女が終わりの日に審きの場に立って記言を与える。
なぜなれば彼女は地の果てからソロモンの知恵を聞くために、はるばる来たからである。
しかしイエスはソロモンより、遙かに偉大なる人である。この人にこそ、より以上に聞き、考えねばならない。
c.シバの女王の語った様々の言葉について注意してみよう。
これらの書に伝道に関し、あるいは新的歴史に関し、ある原理を発見する。
イ.「聞いた」という言葉「ソロモンの名声を聞いた」
耳は神の言葉が心の中に入るための道具である。諸君はコンコーダンスを用いて
「聞く」事が如何に重要であるかを悟るために探しなさい。
例えばマタイ13章には神の国に関して7つのたとえ話を見いだす。
特に最初の2つのたとえの中には、「聞く」あるいは「耳」という言葉が幾度も記されている。
あなたの聖書の、それらの言葉に印をつけなさい。
女王は何を聞いたか?主の名にかかわるソロモンの名声を聞いた。
ソロモンは主の名を現す単なる器にすぎないのである。ソロモンは神あるいは神の名の一つの部であった。
ロ.「難問」シバの女王は難問を持ってソロモンを試みようとしたので彼女は改宗していない。
新生の体験を持っていない人々の方であるということができる。
如何なる道徳家、あるいは高官であろうと問題はない。彼らが新生の体験をするまでは、
すべて未信者である。生来のままなる人はキリストのことを聞くとき、
多くの難問を持って立ち向かってくる。(1節)
私どもは真に主の僕となっているでしょうか?そこで我々はこれらの質問、論議、
論拠が何であるかをまず研究しなければならない。
主の言葉と目次の霊によって彼らに受け入れられるように答えることができる。
(ハ)「その心にあることをことごとく告げた」
これはソロモン王と女王との間の親密さを表している。
牧師あるいは伝道者たる者と質問者の親密さを表すものである。私は長い間、教会の近所に住む未信者、
その町に住む人々への訪問の必要を常に感じている。
それは早急に彼らを教会へ来るように導かないかもしれないが、丁寧に家に訪問することにより、
彼らはだんだん心を開いて、問題について、打ち明けてくるようになる。
(二)「ソロモンはそのすべての問いに答えた」(3節)
王が知らないで彼女に説明できないことは一つもなかった。
何とこれは「イエスはすべてのことを知り給う」というすばらしい絵ではありませんか!
イエスはすべての必要を知り給う。そこには少しの問題も困難もなかった。
(ホ)「見た」(5節) これも新約の救いのための明確な語句である。
使徒2:33を見てください。(見聞きという語に注意)ペンテコステの日に人々は聖霊の働きの現われを見、
聖霊によってバプタイズされた人々が異言をもって語るのを聞いたのである。
シバの女王は何を見たか(5節)?ソロモンの知恵?7つの方法により示されている。すなわち、
1:ソロモンが建てた宮殿
2:食卓の食物
3:列座の家来
4:侍臣たちの伺候ぶり
5:彼らの服装
6:彼の給仕たち
7:ささげた燔祭
以上7点に対する説明
1:きわめて壮麗なる宮殿???神御自身を表す
2:食物???クリスチャンの霊的食物。すなわち聖言、霊的真理
3:列座の家来???神の僕としての奉仕、感動
4:侍臣たちの伺候ぶり???雇い人ではなく、まったく従う者の行為、その方法
5:外観、着物???毎日の生活の歩み、普通のことを表す
6:給仕たち???他の人に対する親切な態度
7:ささげた燔祭???ソロモンが宮に行った時の如く、主の恐れを表す。
(ヘ)まったく気を奪われてしまった(女王)
2節に記されてある如く、この女王は非常に富める女王であった。
「彼女は多くの従者を連れ、香料とたくさんの金と宝石とを持ってきた」
彼女は多くの持ち物を所有し、確かに傲慢であったに違いないが、その傲慢はなくなって、
まったく気を奪われたのである。彼女が来る前に知っていたことより更に偉大であった。
この世において成功し、教育を受け、富める者がイエスキリストの許に来たとき、彼に触れて彼の偉大さを見、
すばらしい知恵を聞いてついに手を挙げ、深い感動を受ける描写である。
そして十分に悔い改め、新生され、幼児の如くなるのである。
・次の諸点を留意せよ
(ト)女王の証???それは真実であった。(6節)
(チ)彼女の告白???「来て見るまでは信じなかった」「半分も知らされていなかった」
(リ)彼女の賞賛の言葉???「あなたの家来たちは幸いです」(8節)
(ヌ)主を礼拝する???「あなたの神、主はほむべきかな」
(ル)女王の賜物???120(使徒2章と比較せよ)