列王記略

本書の著者は不明である。
しかし始めの神殿が違っていた間に書かれたものなることは確実である。(8:8)。
したがって本書は、たぶんエレミヤが霊感によって書き、ナタンガド(代上29:29)。
その他の著者によって書かれた記録を編集せしものと思われる。
これはダビデ&リアハブ、ヨシャバテに至るまでのイスラエルおよびユダの王たちの歴史にして
118年及至125年間の時代を含む。
この書は一般に列王第3の書と呼ばれている(サム上・下)。
ダビデの死、ソロモンの統治、神殿の建築、ソロモンの死とレハベアムとヤラベアムの許にある王国の分裂と
ヤラベアム王の全ユダヤ統治、およびアハジャ王の全サマリヤ統治の2王国の歴史およびエリヤの能力ある働きを記す。

分割(概略)
1.1章~2章11節・・・アドニヤの謀反よりダビデの死まで
2.2章12節~8章6節・・・ソロモンの王位継承より神殿献堂まで
3.9章1節~11章43節・・・ダビデの契約の確証よりソロモンの死
4.12章1節~14章31節・・・王国の分裂よりヤラベアム王とレハベアム王の死まで
5.15章1節~16章28節・・・アハブ王の即位
6.16章29節~22章40節・・・アハブ王の統治と死
7.22章41節~53節・・・ヨシャパテ王の統治よりヤラベアム王の全ユダヤ統治およびアハジア王の全サマリヤ統治。

我々は常に第2テモテ12:16の「聖書はすべて神の霊感によって書かれ、
有益であることを覚えねばならぬ。
旧約を読む時、しばしば明確な霊的意味がないように思われる章に直面する。
そこで深く読もうとせずして通り過ごしがちである。しかしこれは間違いである。
真理が余り含まれていないような聖句でも後で聖霊によって、はっきりと基礎的真理を表す。
その好適例として使徒行伝2章がある。異言を持って語ったことを記してあるこの章は、久しい間、
死んだ章のように多くの善良なクリスチャンにさえ、その如く思われていた。
しかし現代、この章は聖霊のバプテスマを受けた印であるとの基礎的真理を表している。

(1)今列王上1章にも明確な霊的異議をもつ2,3の表現のある聖句がある。次の如し。

a.アドニヤは自分で位を高めた(5節)
これは一般人間の性質である。肉的な人がキリストの霊に敵対する現われである(ピリピ2章5節~8節と比較せよ。
己を空うした。8節己を低くした。第2サムエル18章18節と比較せよ。アブサロムは自分の為に碑を立てた)。

b.油~油を注ぐ~ラッパ~大いなる喜び~(39節~40節)。
この4点はペンテコステ的な大いなる経験を表す素晴らしい図である。
油・・・聖霊の型
油を注ぐ・・・聖霊のバプテスマの型。バプテスマは一つであるが、多くの油が注がれること。
ラッパ・・・証しをすること。説教することの型。
大いなる喜び・・・地は裂けるほどの大いなる声。ペンテコステの結果を表す型。

c.祭壇の角をつかんだ(51節)
この事は旧約に度々起こっている事であるが、これが最初の記事である。
罪の赦しを求める為に罪ある人の型である。同じく今日、私たちは罪過と、罪はキリストを通して自由とせられる。

★第2章

分割

(1)1節~4節 ソロモンへのダビデの勧告
(2)5節~9節 ヨアブ、バルジライ、シメイについての忠告
(3)10節~11節 ダビデの死
(4)12節 ソロモンの王位継承
(5)13節~25節 アドニヤの処刑(撃ち殺される)
(6)16節~26節 アビヤダル祭司職より追放される
(7)27節~34節 ヨアブの逃亡と死
(8)35節 ベナヤは軍の長となり、祭司ザドクはアビヤタルの代わりとなる
(9)36節~46節 シメイの処刑(撃ち殺される)

この章を読む者は処刑することと死の簡単な連続物語の如く感じるであろう。
しかし第2テモテ3:16の聖言の如く、常に神の霊感によって記されたもので
有益であることを覚えねばならぬ。
とはいえ最初は記録から神の進展する真理の黙示として、
どれが霊的あるいは教訓を持つか悟ることは困難かも知れないが、いつか聖霊は、このような聖言の章、節に光を与えるでしょう。
そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。
わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、
あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない。おののいてはならない。

(15)13人の志士
オテニエル、エホデ、シャムガル、デボラ、バラク、ギデオン、トラ、ヤイル、エフタ、イブサン、エロン、アブドン、サムソン。

(16)ルツの最後の決心 ルツ記1:16~17
ルツは言った。「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないで下さい。
わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。
あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。あなたの死なれる所でわたしも死んで、
その傍らに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、
主よ、どうぞ私を幾重にも罰してください」。

(17)ハンナの誓い 第1サムエル1:11
「万軍の主よ、まことにハンナの悩みをかえりみ、ハンナを覚え、ハンナを忘れずに、
ハンナに男の子を賜りますなら、ハンナはその子を一生の間、主にささげ、
かみそりをその頭にあてません。(彼女の場所にハンナという名前を入れる)

(18)神が人を選ぶ方法 第1サムエル16:7
しかし主はサムエルに言われた。「顔かたちや身の丈を見てはならない。
わたしはすでにその人をすてた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。

(19)ゴリアテに向かってのダビデの宣言。第1サムエル17:45
ダビデはペリシテ人に向かって言った。「おまえはつるぎとやりと投げやりを持って、
わたしに向かってくるが、私は万軍の主の名、
すなわちおまえがいどんだイスラエルの軍の神の名によっておまえに立ち向かう」。

(20)シバの女王を深く感動させた7つのもの 第1列王10:5
a.ソロモンが建てた宮殿
b.食卓の食物
c.列座の家来たち
d.侍従たちの伺候ぶり
e.彼らの服装
f.給仕たち
g.主の宮で捧げる全焼の生けにえ

これを見て女王は全く気を奪われてしまった。

(21)女王シバの報告 第1列王10:6~7
彼女は王に言った。「私が国で、あなたの事とあなたの知恵について聞いたことは真実でありました。
しかし私が来て目に見るまでは、その言葉を信じませんでしたが、
今見ると、その半分もわたしは知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は私が聞いた噂にまさっています。

(22)エリヤが尋ねて要った4つの場所、エリシャも共に従う。第2列王2:1~6
a.ギルガル
b.ベテル
c.エリコ
d.ヨルダン

(5)アドニヤの処刑(13~25)
ここにアドニヤが撃ち殺された事件より学ぶべき明確な霊的教訓がある。
この為にアドニヤに関する全引照を調べる必要がある。

分割
x.「私は王となろう」と彼は言って高ぶった(1:5)
y.神の御要求は十分に完全に降服することであれば、それに背くことは神に対し大きな罪となる。
(第1サムエル15:23.背くことは占いの罪に等しい。出エジプト22:18。
魔法使いの女は、これを生かしておいてはならない。すなわち占いをすることは死によって罰せられた。
アドニヤはダビデ王位を奪おうと努力したが、預言者ナタンとバテシバ女王によって妨害され、
ソロモンが王位を継承したことが1章に記録されている。

1:49~53には、アドニヤはソロモンが王となったことを認めている。
アドニヤが真に己の非を悟り、まったき悔い改めをしたならば。殺される事はないとソロモンは彼に約束した。
しかし51節のアドニヤが祭壇の角をつかんだことの記事に注意せよ。
彼が真に悔い改めたかどうか疑わしい。というのは、2章13節で彼は自分の妻として
アビシャグを欲しいとバテシバに願ったことにより、彼の悔い改めは偽りであったことを知る。
ソロモンは彼の知恵によって詐りの秘密の態度を知った。
アビシャグを妻として欲しいというのは真実であったけれども、実際にはソロモン王より王座を奪おうという彼の決心であった。
(Y)
イ.ここに「利己的」「生来のままなる人」の実際の絵を見る。
人は神の御旨と神の道のすべてに対して容易に降服しない。彼は祭壇に来るかもしれない。
洗礼も受け、聖霊に満たされ、幾度も神の道に進むことを告白するかもしれない 。

ロ.真の降服とは、自分の意志、考え、計画の一切を十分に全く捨て、
神の御旨に降参し、従うことを意味し、たとえ如何なる犠牲を払っても厭わないことである。
アドニヤは神に降服しない心と意志を持つ者の真の絵として考えられる。ソロモンが最初に約束したのは、
もし彼がよい人となるなら死なないということであった。
しかし彼は、真に悔い改めなかったので背くことの罪によって死なねばならなかった。

(6)と(7)アビヤタルとヨアブ(16~34)
ここには死ぬことが多く記されてある。
自分の生活を愛した、これらの人々の事件を霊的に応用するならば、
新約時代における人々が目的生活を失わずにして働くのと同じである。
今日、多くの良い人は死んでいる。説教者、伝道者、牧師。彼らは形式的になるか、特別の油注ぎを受けていない。
神の言葉は彼らに対する肉ではない。
彼らは外観は務めに忠実ではあるが霊が働かないし確実ではないので信者もいての如く、霊によって新しくされていない。死の様々の形式よりはなれて、霊にあって生きるように注意せよ。

結論
「あなたは自分の心に知っている」(44)
各自の心に注意せよ。
あなたの宝のあるところに心もある。(ルカ12:34)
心から神の御旨を行い。(エペソ6:6)

(1)列王記略上下はヘブル語の原書においては一巻になっている。
これはギリシヤ語訳、旧約の翻訳者が旧約をギリシヤ語訳に翻訳した時に初めて上下に分けたのである。
それは長すぎる為あるいは携帯に使ならしむる為で止むを得ず2巻に分けられた。

(2)以上の事を考えて一巻として両書の間に存する完全な順序に注意せよ。
本書はダビデ王に始まり、バビロン王をもって終わり、神殿の建築をもって巻を開き、
その焼失をもって巻を閉じ、ダビデの王位を継ぎし最初の者をもって始まり、
ダビデの最後の後継者にして、その囚人の家より放免せられ足る者をもって終わっている。

(3)列王記上は王国の固定と衰退との原因を示すべく書かれたものである。
その支持するところはイスラエル人が神に忠信なる時は栄え、
神より離れた時はその道徳も王国も共に衰退したことである。

(A)ヨシャパテのためにエリシャ援けようと準備する。その時、水が絶対に必要であった。
   エリシャは、この状態を神が授けられるように彼自身が準備した。
(B)楽人・・・エリシアは3人の王の前でかき乱されていた自分の霊を静める為に楽人に楽を奏でさせた。
(C)「私はこの谷を水たまりで満たそう」・・・リバイバルのための準備である。
   人々の上に神の霊が明確に働くようにせねばならぬ。
(D)「主の言葉」(17節)・・・風も雨も見ないのに、この谷に水が満ちる超自然の業は奇跡である。

第4章
分割
(1)油が増す奇跡
(2)シュネムの女に子供を与える
(3)シュネムの女の息子の甦り
(4)毒入り野菜の癒し
(5)100人の食事の奇跡

(1)油が増す奇跡 1~7
注a.このやもめは預言者のともがらの一人の妻であった。
b.夫は主を恐れる者であった。
c.債主が来て2人の息子をとって奴隷にしようとしている。
d.クリスチャンは主を恐れることによって日々の生活に困難が無いのではない。
  むしろ困難を通して神のお約束に近づき、試練に打ち勝つように授けられる。
e.エリヤの質問に注意せよ。「あなたのために何をしましょうか」「あなたの家にどんな物があるか」
f.彼が持っていたものは彼女を救う道具となった。
g.エリシャの指図のうちに示される霊的真理

x.やもめの唯一の財産は一瓶の油であった。
これは聖霊の型である。「他へ行って隣の人々(英語では全てのあなたの隣人)から器を借りなさい。
少しばかりではいけません」。
福音の神の愛と祝福は、すべての我らの隣人に対して知らされることである。

y.「戸の内に閉じこもり」危機に臨む時、神を待ち望む必要がある。
一切のなすべき生活上の仕事から 解放され、神との密接な関係を妨げる一切の煩わしさより離れて祈りなさい。

z.「その全ての器に油をつぎなさい」。
聖霊のバプテスマは自分一人で保有すれば無益である。
全世界に出ていって証しをするように与えられている。
クリスチャンは入り口があってはけ口の無い池や湖の如くだとは聖書に記されていない。
むしろ絶えず流れている川の如き者であると記されている。
川の入り口は神および神のお約束であって、はけ口は隣近所への証しをすることである。

h.「もっと器を持って来なさい」6節
単に証しをするだけでは神を満足させるために十分ではない。
神は「すべての造られたもの」に救いの知識を持っていくように委任された。

i.「油は止まった」。
神の祝福は他人へ証しをする事により滅じない。むしろ質的にも量的にも増し、強くなる。

j.「行ってその油を売って負債を払いなさい」(7節)
これは商売の方法の教えではない。福音書の中に霊的真理が示されている。
すなわちマタイ6:33「まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすればこれらのものはすべて添えて与えられるであろう」。は、この霊的意味である。

(2)シュネムの女に子供を与える
a.英語の聖書では、この女は「偉大なる婦人」と記されている。
彼女は神を信じていたばかりではなく、
偉大なという言葉は毎日の生活により人々から与えられるものである。(彼女の信仰の実である。)
b.「彼女はしきりに彼に食事をするように勧めた」(8節)
彼女はエリシャが神の僕であることを認めた。故にイエス御自身にする如く、エリシャをもてなした。
ヘブル13:2「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は気付かないで御使いをもてなした)。
c.彼女は一度だけしたのではない。彼がそこを通るごとに食事をしてもてなした。
d.「いつも私たちの所を通るあの人は、確かに神の聖なる人です」(9節)

次の事を学びなさい。
x.アブラハムは「神の友」と言われた(ヤコブ2:23)
y.ダビデは神の心に適う人(使徒13:22)
z.ダニエルは「大いに愛せられているもの」(ダニエル9:23,10,11,19)
xx.エリシャ「神の聖なる人」(第2列王4:9)

e.「神の人」のために女の準備した材料を覚えよ(11節)
「神の人」の為に女の準備した材料を覚えよ(10節)
1.小さい部屋
2.ベッド
3.テーブル
4.いす
5.燈台

【霊解】
神の人は神と交わり、聖書研究のため、しばしば一人でおることが必要である。
私はある牧師に尋ねる。「あなたの書斎はどこですか」「ありません」と答える。
彼らは非常に良い寝室、居間を持っているにもかかわらず書斎が無い。
牧師、伝道者は静かに神と交わる時間を持つために、家族や子供たちといつも共にいることは実際に不可能である。
御言葉を通して神の隠れた高い御計画を求め、常に新しい油を注がれるために、
どうしても一人おることの出来る書斎の如き部屋が必要である。贅沢でなく小さくても、
個室、小さな部屋が必要である(ベッド・・・神の御顔を求める、テーブル・・・御言葉を研究する、
いす・・・神の人が研究の間に休息することが出来るように。燈台・・しばしば夜の時、
紙は彼に語ることが出来る。ある御言葉をもたらす)

f.11節~17節
神は栄光のために最も小さな犠牲をささげた者にも忠実に顧み給う。
女がエリシャのために準備したことは大きな犠牲であったとは発表されていないが、
聖書はマタイ10:42には「冷たい水を一杯でも飲ませてくれる者は、
良く言っておくが決してその報いから漏れる事はない」。
(3)18節~37節
「エリシャはシュネムの女の息子を甦らせる」
a.未信者に問題がある如く、信者にも問題があるが、未信者の場合と異なり、
祈りのうちに神に助けを求める事が出来る。22節「急いで神の人のところへ行きます」。

b.ここにもう一つの深い教えがある。
死人を甦らせるような賜物はなくても、苦しみの時、慰められ、強められ、
豊かな主の祝福に預かることが出来る。27節「彼女は心に苦しみがある」。

c.さらにエリシャの僕ゲハジが道であう誰にも妨げられぬように急いで行ったことより教えられる点がある。
牧師は医者の如く、昼でも夜でも他人のために眠りを妨げられるようなことがあっても、常に最善が尽くされるように期待されている。

d.30節「私はあなたを離れません」
婦人の忍耐強きこと。

e.エリシャが死んだ子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、目を子供の目の上に、
両手を子供の両手の上に当て、その身を子供の上に伸ばした時、子供の体は温かくなった。何と素晴らしい象徴であろうか。
我らの身体は聖霊の宮であるから、我らもまた未信者との接触によって、信仰、力、生命を移すはずである。

4.有毒の食物がエリシャによって毒が無くなる。(38節~41節)
a.飢饉・・・財政上の欠乏
しらない野菜を集めた。それは有毒であった。

b.粉は食物の毒を無くするために用いられたが、その力は神からであった。

5.100人を食させた奇跡。 42~44

a.パンは初穂として神に捧げられたもの。「初なりを持って主をあがめよ」箴言3:9

b.初穂のことは律法に記されてあって、主に携えて来ることになっていた。出エジプト23:19、34:26を参照せよ。

c.42節は、この律法に従ってなされた。
百人の群集のためには僅かなパンしかなかったが主は食べさせるように命ぜられた。
全く不可能と思われるようなことをするために主に従う時、そこに奇跡が起こる。
従うことに対する一つの教えである。

第5章 ナアマンとゲハジ
この章に登場する人物

(1)ナアマン
a.スリヤ王の軍勢の長
b.主君に重んじられた人
c.有力な人
d.勝利を得させられるために主に用いられた人。
e.大勇士
f.らい病人

(2)女中
a.イスラエル人
b.スリヤ人の捕虜
c.ナアマンの妻に仕える
d.女主人に証しをした。

(3)スリヤの王
a.ナアマンのらい病を癒してもらいたいと手紙を書いて使者を送った人(5~6節)

(4)イスラエルの王
a.スリヤの王の要求を誤解する(7節)

(5)ゲハジ
a.エリシャの僕
b.食欲に負けた人

注1
捕虜として敵地にある小さな女中より教えられる点がある。困難な立場にあって、
如何にして信仰を守ることが出来たか。自分より目上の人、高い地位の人に、
癒しと神の祝福について証しをしたことについて学ぶべきである。

注2
イスラエル王がナアマンを癒すように頼まれたので起こったことを聞いた時、
エリシャはどうしたか。そのエリシャの為した行為について学ぶべき点がある。
エリシャは全ての病いを癒すことによって神の力を現す機会を掴んだのである。
この事から今の教会の誤った点を教えられる。
教会は主の祝福をもって人々の方へ出かけて行く代わりに人々が教会へ来ることを期待している。
らい病人ナアマンは最初に預言者のところへ行かなかった。預言者の方から彼を助けようとまず申し出た。
8節のエリシャの言葉に注意しなさい。
「そうすればイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」ローマ書11:13
「私の務めを光栄とし」という言葉と比較しなさい。

注3 ナアマンの悪しき態度
彼は心から自分のらい病が癒されることを欲したにもかかわらず、その態度は良くなかった。
最初エリシャがするように教えた神の方法に従おうとしなかった。
この点において今日の救いの大きな妨害となっている一つの事を見ることが出来る。
福音を聞いた人々は救いを希望するが、自分の心に適した方法によって救われることを望む。
悔い改めずして救いを希望する。或いは聖霊を受けることを望まない。
神のメッセージが常に十分に全く降参することの必要を強調する理由はここにあるのである。
もう一つの理由は、なぜ多くの者が全き救いの体験を得られないか、これによるのである。
また預言者エリシャがヨルダン川に7度身を洗いなさいといった教えも重要ではありませんか。

2つの事
ヨルダン川に身を沈める事は、ある道と欲望に対して死ぬことを現す。また7度は神の完全さを表す。

注4 ゲハジについて(20~27)
ゲハジの罪とその罰はそれ自身が物語っているが神のための働きを訓練する上にこの事は幾度も繰り返し強調されねばならぬ。
人間の弱い性質である貧欲はしばしば神の働き人の失敗の方法となる。
ここに神に召された人々に対する考えがある。
神は日々の生活、個人的必要を供給されるが、神が供給されることと、
僕自身がこれらの物質的必要を受けることのために計画することは両者に相違がある。20節に明確に言われている。
「私は彼の後を追いかけて彼から少しのものを受けよう」。続いてもう一つの事が示されている。
ゲハジはナアマンから品物を受けるために、その理由として事実でないことを告げた。
「2人の若者が私のもとに来ましたので、どうぞ彼らに」これは偽りであった。

また預言者エリシャが識別する霊を持っていたことを覚えなさい。
神の働きの指導者には、これが必要である。この識別することが指導者となる者に欠けているならば、
教会に問題の起こる理由となる。すなわち、そのために神が召し給わない者が教会のある立場に立つ。
偽善者である者が教会の重要な位置につくことを教会が認めることにより、問題が起こる。
「今は金を受け、着物を受け、オリーブ畑、ブドウ畑、羊、牛、僕、はしためを受ける時であろうか」これは神が神の僕に必要をお与えになるには「時」があるということを表している。私どもは物質的なものにいつも心を用いてはいけないということである。

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