神に用いられる人の亀鑑たる彼、およびその生涯の準備と試練に望みし時の態度に学ぶ
はしがき
キリスト教会の初代より今に至る2000年間
もちろんそれ以前の旧約時代においても恵みより恵みに進もうとし、常は飢え渇きを覚えていた信者は、どこの国、いずれの時代においても、
旧約聖書に記録されるギデオンという神に用いられた人物の生涯に学んで恵まれ、教えられたに違いない。
今一度、彼の生涯を深く探求して、東亜の日本国により早くリバイバルの与えられるために働くべき器として選ばれ、
聖霊のバプテスマを受けた者がギデオンに学んで同じく神の御力によってご栄光を拝されるよう祈りたいものである。
ギデオン時代のイスラエルの堕落
ギデオンの生涯は士師記6・7章に詳しく記されている。
彼が呱々の声をあげ、養育された当時のイスラエルの国家は、
かつて神の絶大な恩寵と不思議な大能のみ業とによってエジプト王パロの圧政下より贖われ、先祖アブラハムに約束された
「父と蜜との流れる血」といわれる結構な土地カナンを得て居住していたにもかかわらず、
言語に絶した堕落をしていたのであった。
神の特選の民、あるいは至聖者が頭である教会の聖徒と呼ばれる者たちが堕落するならば
何という恥のある立場に立つことであろうか。
我々はこの点を考えてみなければならない。
人の心というものは生きる神の大いなる御恵みを味わい、不思議な奇跡的な御業を見たことがあっても、
いつでも開けっ放しのちょうつがいで、開閉する扉がわずかな風でバタバタするように、まことに動きやすいものである。
ちょうどイスラエル民族が悪を重ね、唯一の真の神を捨てて何の価値もない偶像を礼拝するほどに堕落しきった結果は、
国土はミデアン人の侵略を受け、国民は奴隷の縄目に憂き、艱難をなめなければならない事となって、
神より与えられた歓喜と自由と幸福をまったく失ってしまわなければならなかった。
この文の読者の中に、ありがたい経験を離れて以前の信仰の熱が冷め切った立場にいる人があるのであれば、
このイスラエル民族の堕落の状態を明らかに見ていただきたいと思う。
1「こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、
山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。 」士師記6章2節
堕落の結果、第一に迫ったものは侵略の敵軍に当たる力がなく粉砕され、闘争の身の置き所を屋根の下に得る事がなく、
獣のごとく、穴に洞窟に身を忍ばせて恐れ慄いていなければならない悲惨な境遇になってしまったのであった。
愛する兄弟姉妹よ、同じく魂の堕落した者は直接神の前に出て語ることも感謝することもできない。
ただ1人で神なき孤独な魂の迷い子となって拠りどころのない人生の迷路を迷い喘がなければならないのである。
2 「イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。」(士師記6章3節)
堕落の第2の結果は彼らが種まきの辛苦も水泡に消えて、刈り入れができないことであった。
すなわち、どんなことをしても皆むなしい結果に終わって満足は少しも得られず、死んだほうがましだと考えるようになってくる事であった。
3 「それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。」(士師記6章6節)
第3の結果は道徳的な力がなく、生涯の望みを失い、
生まれなかったほうが幸福だったとまで思うにいたって全く衰微のどん底に落ちてしまうことがある。
けれども「すると、イスラエル人は主に叫び求めた。」(士師記6章6節後半)とあるごとく、
その衰微の極みの立場から神を望んで御名を呼べば、神は哀れみを持って顧みてくれて救いの道を開いてくれるので感謝したい。
ハレルヤ。預言者のヨナも神を離れた結果、恐ろしい鯨の腹の中に葬られたことがあったけれども、
彼も魚の腹の中から主の御名を呼び叫んだ。神はその声に耳を傾けて聞き入れてくださったのであった。
すなわち彼は磯の渚に吹き上げられて死を免れたのであった。
こうしてヨナは再び神に従順に、その与えられた使命を全うし得たのであった。
イスラエルを救うために神は一人を選んでくださった
生きる神は頑迷よりさめて、悔いほぐれた心を持って、ご自身により頼むものがあれば、
涙の声を聞き、顧みてくださって救いの道を開き、すべての罪を許してくださるので、
これは実に神の無限のご慈愛の表れであると言わなければならない。
しかし人々がしばらくの間でも罪の生涯を送り、悪魔に体を生涯まかせたとしたならば、
その者に対して悪魔は非常に権利を持つことになるのである。
義と公平の神は悪魔の権利を認めいるので人を救おうとする前に、
ぜひ悪魔の権利を破り砕かなければならない。
こうすることは悪魔にまでも訴えることができる余地をなくしてしまうための解決である。
そこに初めて、悪魔すらも主の僕とされた救われた者の確信を認めざるを得なくなるのである。
しかしながら各方面に悪魔は、この生きる神の救いが人類に成就しないように全力を注いで妨げるのである。
これは不信仰、悪、アダムの性質、哲学、神なき教育などを用いる悪魔と、公平、義、哀れみを
持って臨んでくださる生きる神との戦いである。
そして、その勝敗の数は一面に考え得ると定まらないように見えるかもしれない。
しかし戦わないでも先立って勝利を確信し、ついに勝利は神の手に帰すると決まっているから賛美である。
神が人々を救ってくださるためには、いつでも天使のように優れた器を用いるのではなく、我々と同じ値打ちしかない、
制限された力と知恵しか持ち合わせていない人間を用いてくださるのである。
エジプトよりイスラエルの民族を救い出された時には、エジプト王パロの怒りの手に慄いてミデアンに逃げ去ったモーセを選んで備え、
彼の死後にはヨシュアを立ててカナンの勝利の器とし、さらに全人類を救ってくださるためには弱い女性マリヤを通して肉体を供えて、
その中に神ご自身が宿ってくださって、私たち人類の罪を十字架の上に運んでくださった。
キリストの御昇天の後には世界の「救われていない霊魂」を御教会に預け、満たされた信者を通して
「救おう」とのために人々を備えてくださっているのである。
そのように神はミデアン人の手よりイスラエル民族を救おうとしてギデオンを選んでくださったが、
選ばれた人はどのようにして準備されたかを考えてみたい。
神に選ばれた者の準備
この研究に先立って注意していただきたい点は、ギデオンの準備と20世紀のリバイバルのために
用いられる器の準備とは全く同じであるという点である。
しかしここに大きな危険が存在していることを見逃してはならない。
しかもそれは最も恵まれて飢え渇きを覚えて神のために犠牲的に働こうと乞い願う者に臨んでいることであるから
戦慄せざるを得ないのである・・・それは何かといえば、その人たちが指針として選ぶ数々のもの・・・
すなわち数千年の昔から与えられている聖書をよそに不忠実な人々の頭脳ででっち上げた出版物、
あるいはモダーンな伝道の印刷物に自分の神へ仕える方法を見出そうとしてかえって生きる神から迷い出て、
せっかく犠牲的に働こうとする目的と全く相反した結果を招き、ついには信仰を失ってしまうことである。
昔から罪の性質には変わりがない。
悪魔の働き方は変化しない。そして神の働いてくださることも今も昔も同一である。
神が聖霊を与えてくださった理由は霊的活動の案内のためとも言える。
何千年以来の働きを研究してみて、一つとして神以外、聖書以外のものがリバイバルを起こした例がないのである。
いかに知識のある者の著した本であっても、要するに聖書に比べてはカスのカスである。
ゆえに私たちが聖書に絶対の権威を感じないで他のものに依るならば、早晩堕落を招くより道がないであろう。
また、このギデオンの準備の生涯を研究するならば、彼の不信仰と消極的な引っ込み思案の欠点をも考えねばならない。
なぜならこの性質も、今日の神に選ばれている人にも共有の点があるからである。
まずギデオンの生涯を8つの方面から学んでみたい。
1:「・・・主があなたといっしょにおられる・・・」(士師記6章12節)
聖霊のバプテスマ
神に用いられる者は、すべて聖霊のバプテスマを受けた人々に違いない。
これによって「エホバ我と共にいます」の確信が与えられる。
バプテスマの語は諸君も既知の通り日本語でも英語でもない。「水に浸す」というギリシヤ語である。
洗礼とは全身を水の中に沈めることで、聖霊のバプテスマも同じく、我が魂の中に聖霊が満ち、
聖霊の中に我が霊が息づくことの経験をいう。
この経験のない真面目な信者は常に祈って神に近づくことはできるが、それが聖霊のバプテスマではない。
近づくことと共にあることとは絶対に違っている。
1尺に最も近い長さは9寸9分9厘9毛9紙9骨である。 けれども、もとより1尺ではない。
長さの方面からいえば9寸9分は1寸よりもはるかに1尺には近いに違いない。
しかし9寸9分も1尺も遠近こそあれ、共に1尺に満たない事実は同様である。
これはかりそめな例ではあるが、真理が含まれている学ぶべき例えであると思う。
これによって我らの悟りも開けてくる一助となろう。
ある人は異言は聖霊のバプテスマに問題ではない。自分はとても恵まれている、清められている、義とされている、
この経験だけで異言の徴は必要ない、これだけで大丈夫であるというかも知れない。
そしてまた他の人々もあの人は立派な信仰家だ、聖別された人であると賞賛し保証されるかもしれない。
しかし、それでも1尺に対する9寸9部の近さであるというより他に仕方ない。
それは彼が何と抗弁しようと聖書が明らかにする聖霊のバプテスマではないのであるから。
実に異言の徴によって聖霊を受けさせられた人々は
「・・・わたしは彼らの間に住み、また歩む。・・・」(第2コリント6章16節)の聖句の通りの確信を持つに違いない。
またコロサイ1章27節の「 あなたがたの中におられるキリスト」も神と共にいる義である。
そうであるならば愛する兄弟姉妹よ、汝と共にいますと言われた神の言葉は、
同じくあなたに言われた言葉ということができよう。もしその点に疑いがあるならば、
今へりくだって聖霊のバプテスマを求め、満たされようではないか。
2:「勇士よ」(士師記6章12節)
御言葉の力によって打ち勝つ生涯
ある人は異言の徴をもって聖霊のバプテスマを与えられたならば、そこに軽い満足をもってとどまり、
その時からすっかり安心してしまって何もせずに手をこまねいているのを見るが、それは大いなる誤りであって、
聖霊のバプテスマを与えられたということは、ただ聖霊の世界の門をくぐったに過ぎないので、
栄えある勝利の戦いはそれから始まるのである。
その戦いのために聖霊のバプテスマを通して力を与えられたのである。
使徒行伝1章8節を読んでその使命を自覚しなければならない。
聖霊を受けたならばあふれる歓喜、満たされた確信、感じられた自由が多分に経験はされるけれども、そこに留まってはいけない。
感覚や感情に依らず、ただ信仰によって進み、授けられた聖霊の力によって各自の弱点を強くされ、
心のどん底にこびりついている主イエスの性質に合わない世の中的な癌を手術しさって、
聖書がいよいよ、ますます働かれるためにその分量を広げることは、実に神に用いられる人の準備として重要な点である。
なぜ少年ダビデが巨人ゴリアテを少しの戦場経験も無くて見事に倒し得たかと質問したならば、
あなたは「もちろん信仰によって行ったから」とお答えになられるであろうが、
ダビデは彼の私生活において聖霊の力による戦勝の体験が無かったならば、
ゴリアテにかくも容易に勝つことは難しかったことであろう。
証拠は第1サムエル17章の34から37節に詳しく記されている。
37節には「このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。
あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの 獣の一匹のようになるでしょう。・・・」とあるが、
この獅子と熊は一般の人々に2種類の戒めを教えている。
獅子は荒れ狂い乱暴で、かの爪や牙に一度かけられたならば人も獣もひとたまりもなく絶命しなければならない。
あたかもそれは、飲酒、肉欲、盗心の試みであろう。
多くの人々は、いつでもこの誘惑に会い、命を縮め、魂を蝕まれてしまうのであろう。
熊は親しい友の姿を装って前足を広げて抱擁を表して接近してくるが、
優しそうなこの媚に引かれて、その腕の中に抱き込まれるならば、ついに命は彼の手中に陥ってしまうのであって、
これは人の虚礼に憧れ、己が傲慢によって身を破滅させる種類のものを意味するのである。
3:「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(士師記6章14節)
神が我を遣わすという自覚
御栄光をあらわすために用いられる器の秩序ある準備の一点は特別のことの遂行にあたって
神より権威を授かるべき必要のあることである。
ただ興奮興起といった有様で行動することは効果が無い。
あるいは必要に迫られたからといった程度の行動も成功をもたらすことは困難であろう。
「なぜ?」と質問されるのならば、悪魔は絶えず神の栄光の現れることを妨げ、
神に用いられる人物に確信の薄弱なことを見て取るならば、
「お前はそんな有様で、どうしてどうしてそのことに当たることができる」とささやき、ついに失望に陥らせ、
「もう俺は駄目だ」と全く屑者にされてしまうであろうから・・」とお答えしたい。
「汝の力をもって行け」とギデオンに命じてくださった神の言葉の意味は何であるかといえば、
私生活における色々の良い経験をいうのではない。
もちろん神に用いられる者は、まず第一に結ぶところの実を味わうべきではあるけれども、
良き私生活によって神の権利は得られない。
「力」とは言い換えれば神より使わされた者の権利であって、この「力」のみが勝利の鍵なのである。
ヨハネ伝には「神に遣わされた」という言葉がたくさん用いられている。
それにはキリストのみがあらゆる試練、妨害に打ち勝つ道である意味がこもっている。
ゆえに我々も同様にキリストに遣わされた確信を握ると勝利を得ることができるのである。
これについてヨハネ伝20章31節を読んでいただきたい。
ここにも聖霊のバプテスマの経験の利益が深く見えている。
聖霊のバプテスマを受けて、その聖霊に任せて神の御恵みを続けて求めるならば、
確かに聖霊の導きを通していかなる方面に御心があるかが知られてくる。
第1コリント12章11節に、聖霊が御自身の心のままに満たされる信者の賜物と使命を与えて、
また示してくださると記されてあるから、実に異言の徴による聖霊のバプテスマを受けて、
任せていくならば、疑いの無い信者の生涯を送ることができるから賛美である。
ギデオンただ一人の存在が堕落の果てに達したイスラエルにリバイバルを起こしたごとくに、
御霊のバプテスマを受けて任せるならば、この世の教育に乏しくとも、何の力なき無位の者であっても、
神に用いられ、日本のために大いに御栄光をあらわす者と必ずなり得ると信じるものである。
神に用いられる生涯の準備を探るならば、
その中には生まれつきの恐怖の性質が頭をもたげて活動を妨げようとするのを見る。それが
4:「ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。
ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」 (士師記6章15節)
に明らかに物語られている。
昔も今も変わらず、神に選ばれた者が必ず生まれつきの恐怖が出て神の経綸に定められた業が自分には
いかにしても成し遂げられないという風に考えが衰微してくる。
しかし前述の神がギデオンにおっしゃった御言葉を思うならば、彼は決して恐れを抱くはずは無かったのであった。
神は「勇士ギデオンよ、我汝と共にあり」と保証してくださったのではなかったか。
「汝この力をもって行け」と命じてくださったのではなかったか。
全能の神がここまで保証し、ここまで確信を与えて命じてくださったのに、
なお彼が疑いを抱いて躊躇する理由は無かったのではないか。
幸い、神のために働こうとする現代に、この種の妨げや経験がやってくるとしても、
ギデオンの先轍を踏まないための戒めとすることができるゆえに感謝である。
いま彼の答えた一言を遡上に乗せて批判してみよう。
15節の短い文章の中に「私私私」と我が3回も繰り返され、「父」という語も1回使っていながら「神」
の力には少しも触れていない。
何という事だ。彼は神に言われた「勇士よ」「我汝と共にある」「汝はこの力を持って行け」との力ある御言葉を、
いったいどこに聞いていたのであろうか。
ギデオンの誤りは「私私私」の自力のみを見つめ、家柄血統に考えの中心をおいたことであった。
もちろんそうした狭い、弱い己が重心で行動するならば、失敗することは当然というともおろかな話である。
彼が選びを受け、神に用いられた者との確信があったならば、神のみを見上げ、その大能の御業を信じ、御約束に立脚し、
己ばかりを見ず、いかなる弱点をもち、いかに賎の男であっても、ただ神に信頼するならば大丈夫なのであった。
我々がギデオンの不信の一言を批判する事だけは容易だが、我々も同様の失敗を繰り返すのである。
各自が省みるならば、個人伝道において、あるいは路傍の証に、
または多くも無い俸給のうちから厳格に什一献金を実行するについて、
あるいは難問題に突き当たったときに信仰的解決をするはずと思いながら、弱い弱い者だとのみ卑屈になって解決を誤り、
また過去の失敗のみ振り返ったり、周囲の人の不成功にとらわれ等ばかりして、神がなしたもうたこと、
神の約束を思わなくなってしまう。正直に自己の弱点を悟るのは良い事であるが、それによって神の全能を制限する事は遺憾千万なことである。
我々が十分持っているものをもって、神の御用を勤めるに足るものであるかどうかが問題なのではない。
神がいかなる事もなしうるに足りる方であることを信じるか否かが問題なのである。
神が有史以来6000年の御業を通して十分にいかなる不思議をもなし得たまう方であり、
全能とは真実であると信じるか否かが問題なのである。
ゆえに我らが失敗の多い過去を持ち、貧弱な現在で無きに等しい者であっても、
ただ神を見上げ、御言葉に任せて従うならば、ヨハネ伝1章13節が我々の生涯に確実な証明として生きてくるのである。
神がギデオンの申釈に答えてくださったことは興味ある御言葉である。
5:「 ・・・わたしはあなたといっしょにいる。・・・」(士師記6章16節)
かくも意気地なし、後込みする不信のギデオンを咎めることなく、厳格に
「わたしはあなたといっしょにいる」と励ましてくださったが、
彼ギデオンは神にこう言わなければならない不信仰を省みて、恥じ無き能わずであっただろう。
神が汝の言うところは当然では無いとは言わない汝が、通常の凡夫であり、
その家もまことに貧しいものであるというのにも誤りがあるとは言わないだろう。
汝に言うところに誤りは無いだろう。けれども非力なる賎民である事は少しも問題ではない。問題は「我」である。
「エホバなる神」である。汝がいかに弱くあろうとも、卑しくあろうとも、千度失敗した過去を持っていようと問題ではない。
「我」だ。我が汝と共にあるのだ。おののくな!勇めよ!励めよ!との意味の厳格な言葉を言われたのであった。
悲しい事はギデオンの不信仰のために全能であると共に偽る事が無い神をして「必ず」
と虚偽の多い人間同士がするがごとき誓いの言葉を用いてしまったことであった。
これはとりもなおさずギデオンが神の繰り返して言う御言葉を十分に悟り得なかった証拠であった。
手近な例を引くならば、ある親密な親子があって、常に親は子のために注意を怠らず、子もまた親に従順であったとする。
ある時、親は遠い所に旅行する事になった。
それで門出に先立って愛子をひざ元に呼び「帰る時には良いものを土産に買ってあげようね」と約束した。
ところが子供は本当かな?という疑い深い顔つきで嬉しい色も表さず
「お父さん嘘じゃない?」
と聞き返した。
「あぁ本当だよ」
「そう、それなら嬉しいけれど、・・本当に?お父さん」
「うん本当だとも。お父さんは何で嘘を言うものかね」
「それなら本当に本当なんだね」
と念を押して十分に父の約束を信じきれずに喜々として楽しく待つ有様が見えなかったら、親は悲しげに最後に言うであろう。
「あぁあぁ、そんなに念を押さなくてもいいよ。必ず買ってきてあげますよ」と。
あぁ愛する人々よ。
肉体の親であるならば、ある時は「必ず」という言葉で誓わなければならない時があるかもしれないが、
それでもなお思わず忘れて裏切る場合もあるかもしれないが、絶対に偽りのない愛
そのものでいます神には必要のない言葉である。けれどもギデオンに対しては神は用いられた。
なぜ?ただ彼の「不信仰」のゆえにであった。
このように人間は罪深いものである。単純に赤裸々の言葉を受け入れることができない。
この不信仰の根が、一般の信者の心にも深く張り詰めているのを見るのである。
6:「・・お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。」(士師記6章17節)
何と驚いた疑い深いギデオンの言葉であるだろうか。
神が御自身の言葉に対して真実であると誓ったり裏書したりする必要がないにも関わらず「必ず」という言葉を
お使いになったゆえんは、ただ彼を強い確信を持つ者にするために他ならないのであったのに、
彼はなおも自身が神に選ばれて用いられるべき者であるかと疑惑を抱くとは、実に不敬虔であるばかりでなく奇怪至極でさえある。
けれども人間の生まれついた性質がそうなのである。
比較してみるならば神の言葉の「必ず」とギデオンの「もし」と、何という奇態な対照であるだろうか。
だが世間には活ける神の御言葉より人間が組み立て作り上げた教えや哲学を懸命に研究して、わざわざ自ら行き詰っている人々が多い。
それは、いかに良さそうに見えても、その働きと結果は神の「必ず」とギデオンの「もし」の比較の程度を出ないのである。
神の御言葉のみを信じて立つならば、常に必ず確固とした信念に生かされるが、
それに対して哲学などの異端に傾くならば「であろう?」の不確実な、たとえ「である」と言い放つことが
できたとしても独り決めの思い込みでしかあり得ないのである。
7:「すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。
主の使いは去って見えなくなった。」(士師記6章21節)
賛美したいことは、どこどこまでも、神が我らのために耐え忍びをもって働いてくださることである。
もし神にこの忍耐がないものとすれば、誰が瞬間でもつつがなく立つことができるであろうか。
神はギデオンが弱い肉の人であると知っているがゆえに、彼の人間らしい要求にも怒りたまうことなく証拠を与えられたのであった。
すなわち彼は、そこの岩の上に調理したヤギの肉とパンと汁を壷に盛って、天使の前に供えたのであった。
天の使いは携えていた杖を取り上げて、その端が供えの物に触れるやたちどころに岩より火が
出てことごとく焼き尽くしてしまったのであった。 アーメン。
岩石より火が発したのである。神の不可思議な御業である。
燃えるべき性質の物から火を出すことは人間にも可能の行為であるが、大きな岩から火を出すことは全能の神にして
初めて可能のことであって、しかもそれは、その力の極めて僅かの現われにすぎないのである。
愛する兄弟姉妹よ、ついでにこのことを申し上げたい。
この点にまた別な教訓も学ぶことができる。
すなわち我らは、固い、冷たい死んだ石に等しいものである。
けれども一度聖霊のバプテスマを受けるならば、命なき土の塵から燃え立った火の証が出てくるから感謝である。
8:「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」(士師記6章23節)
ここまでギデオンの準備の生涯について詳しく研究してきたが、これはとりもなおさず現代においても
神に用いられる人の経験でもあるのである。
はじめにギデオンが神に恵まれ、さらに選びをこうむり、なお命令を受けたにも関わらず、
人間的試練に神ののたもう言葉を見ず、自分の弱さ小ささをのみ見過ぎて後込みして受け入れなかった。
神は確信を促して強めたまうべく御声をかけられても、人間的考慮はなおも「もし」との疑惑のうちにためらわさせた。
神は続いて忍耐を持ち、彼の疑惑を解決するために彼が要求した証拠を明らかに与えて、全く疑うべき余地をなくされたのであった。
で彼は、いまこそ勇敢に立ち上がって御命令に沿っていくべきだったが、聖書に記されていることはそうではなかった。
曰く「あぁ神エホバよ、我が顔を合わせてエホバの使者を見たれば将いかんせん」と別の慄きで消え入るばかりであったのである。
愛する兄弟姉妹よ、その通りに我らの個人生涯にも同じ有様が見えるのである。
一度に全く自由にさせられ、御言葉にそのまま何の疑義も差し挟む事なく、
十分に確信を持って進むことができるなら何よりであるけれども、なかなかそうではない。
諸君もまたギデオンのごとき経験を踏み、サタンも確信を傷つけて失敗に導こう、
導こうと爪牙をといで働いているのであるが、サタンと「肉の我」が反対しても、
神は忍び忍んで約束を与え慰めてくださるので、まことに感謝に絶えないのである。
「安心しなさい。恐れるな。」とはいまも主が選びの器にくださる御声である。
信仰の試練
さてギデオンも様々な方面より色々の形を持って準備が整えられ、いよいよ外敵に向かって戦端を開く事になるのであるが、
それがまた大きな試練によって鍛えられていく道である。
いかに十分な準備ができても、果たしてその信仰が全きものであるかを試みた上で活ける神は用いたまうのである。
信仰の試しは必要
多くの信者は、この根本の点について理解していない。
神に厳しく準備させられたならば十分である、根本の教理が分かればそれで良い、というように思うけれども、
そうした人はいざ信仰の試練という場合に遭遇すると、たちまち絶えかねて失望と落胆とに閉じ込められてしまうものである。
ゆえに完全なる準備の上に、現に持つ信仰を試みられることは大切である。
これはあらゆる社会においても見る事実で、たとえばある製造会社にしても製品の販売に先立って、
すでに発表した見本と実物とが相違しているか否かについて厳格な試験を行い、
もし不合格の物であれば破棄するか製造しなおすかして販売品にはしない。
聖書中で神に用いられた人物は皆信仰の試しを受けている。
信仰の父といわれ、後世に信仰の模範を残しているアブラハムの信仰を見るならば、
彼もまたその信仰を神より厳格に試みられて強くされている事が知られるのである。
彼には約束によって与えられた一人の子があった。
イサクと言い、健やかに成長して青年になったときであった。
アブラハムはある日「汝の子、汝の愛する一人子すなわちイサクを携えてモリヤの地に至り、
我が汝に示さんとするかしこの山において彼を燔祭として捧ぐべし」との神の命令を受けたのであった。
アブラハムとその妻サラはイサクの生まれる長い以前から「汝の子孫は空の星のごとく浜の真砂のごとくなるべし」
との同じ神の命令を信じてきたのであったが、彼らには子供が与えられなかった。
子の無い者がいかにして星の数、浜の真砂のごとき者の先祖となる事ができるであろうか。
絶対にその道はないであろう。
けれども彼らは信じ続けてきた。しかしてついに百という齢を重ねるに至ったのであった。
思えば、この老齢の夫婦には全く望みが絶えたことであったに違いないが、
彼らはなおも御言葉の上に立って約束を疑わなかった。
この確固たる信仰の結果は、神の奇跡が働き、サラはイサクを産んで神の約束は成就し、
彼らの信仰は勝利を得たのだった。神は彼らの信仰を認められたが、
全き信仰であるか否かと最後の試みをなしたまうことが必要であったので、
何らかの説明も理由も仰せたまわずイサクを燔祭として捧げるべく要求された。
アブラハムはこの要求に対して、毛頭の反問もしなかった。
彼の全き信仰は、ただこれ神の命令に従順であった。
命ぜられるままに示された地に行き、燔祭の薪をイサクに負わせて火と刀とをとって準備を整え、
ただ2人で山に上り、壇を築いて薪を積み、イサクを縛ってその上に乗せ、刀を振ってまさに愛子の命を断とうとしたのであった。
その刹那天より御声があって、
「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。
今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章12節)
とアブラハムの手の刃を止めてくださり、傍らに牡羊を備えてイサクの代わりたらしめたのであった。
ほむべきかなエホバ。称うべきかなアブラハムの信仰。
ギデオンの場合
「その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、
あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。」
アブラハムの信仰とギデオンの信仰と、その他聖書中の神に用いられる人物の信仰のごとくに、いまも我々信者の信仰も試みられなければならない。
ギデオンの信仰鍛錬のされ方は、わが国の人々にとって至極興味あるものである。
彼はまず第一に祭壇を粉砕し、親族知己の礼拝する偶像を切り倒すべき厳命を授けられた。
あたかも偶像崇拝の家庭の人となった我々が救われて、真の神にかえってみると、
何より先に骨肉親族に対する試練を受けなければならない。
なぜなら救われた時から、もう骨肉などの拝する偶像にはひざまずくことができないから、
否偶像は「神にあらず」と厳格な態度で固く断たなければならないからである。
そのとき反対の人々は「キリスト教会は血肉の親密を認めない、家族制度の破壊者である」と攻撃するものであるが、
決してキリスト教会は家族制度を破るものでもなければ骨肉の関係を無視するものでもない。
キリストも聖書も厳格に親たちを敬うことを命じている。しかし活ける神はねたみの神であって神より以外のものを
神より以上に愛する事は絶対に許してくださらない。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
と要求してくださるゆえに、神は第一の愛をもって仕える者でなければ神は用いてくださらないと思う。
たいていの人々が救われた後、悪友と手を切ること、あるいは未信者の迫害などには割合に容易に
勝利をとることができるけれども、同じ家に住み、同じ釜の飯を食べ、寝るも起きるも遊びも働きも苦楽も共にしてきた
同じ家族の親兄弟からの迫害に耐えるということはなかなか困難なものである。
全く知らない赤の他人から「耶蘇クソ」と痛罵を浴びることはさして自分には痛痒を感じないとしても、
幼い時から杖とも柱ともして信頼してきた父、風の日、雨の夜、病める時、悩めるときにその腕の中に
いたわり慰め育ててくれた母などの切愛する者たちから「お前は私たちの先祖代々拝んできた神様を捨てて
外国から来た宗教を信じるとはどういう訳か。
ご先祖様に対して申し訳のないことをしでかす親不孝者にするために、この父もこの母もお前を育てはしなかったはずだ。
もう一度思いなおして私たちを悲しませないでくれ・・頼む」
などと柔らかく責められたり、あるいは「どうしても改心しなければ親でもない子でもない。
今日限りで勘当するから覚悟せよ」と厳しく怒りを受けたりなどして、
毎日毎日繰り返されることは実に耐えがたいものである。
骨肉において聖書は何と語るか
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、
そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14章26節)とキリストは仰せられた。
憎まない者はとは、もちろん捨てよ、愛すな、かまうなとの意味ではない。
何よりも神第一でなければならない、骨肉はその次にしなければならないという意味である。
それが 「さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(またい10章36・37節)を熟読するならばはっきりしてくる。
ギデオンの信仰の鍛えられ方は神の命令で父の偶像を切り、壇を壊して活ける神のために新たな祭壇を築かなければならないことであった。
彼が他の土地に行き、見ず知らずの者の神々を切り倒し、祭壇を叩き壊す命令であるならば別に困難な事ではないかもしれない。
けれども父の壇であるところに非常な困難が見える。
だが一面彼の信仰が真実のものであるか否かを試みるには都合の良い命令であった。
のみならず彼がただ1人の神のみを信じて他の神々は絶対に認めない信仰を披瀝する機会でもあった。
信仰というものを理解しない人でも貞節な婦人であるならば断じて2人の者に許す事をしない。
魂の方面でもまた軌は同じであって1人以上の神を拝むことは許されないのである。
道なき所に道を開きたまう神
実にギデオンの立場は危ない。
神の命令を実行して偶像や祭壇を壊したとすれば、家族親戚はこぞって憤激して彼の命もその手中に陥らねばならないかもしれない。
殺されてしまえば万事休すだ。
その後いかにして神の御用に当たることができようか。
今のうちに良い加減に片付けてしまおうかというような誘惑も心に起こったかもしれない。
あるいはまたここで、神に用いられないほうが幸せであったという疑念も沸いたかもしれない。
けれどもこれは吾人の想像であって、事実、彼ギデオンの信仰は偽りの信仰ではなく、
不完全な信仰でもなく、詩篇15編4節の「損になっても、立てた誓いは変えない。」の通り信仰は揺るがなかった。
勇敢に立って命令を遂行した結果は、命を狙われ殺されかけた危ない目から神は救ってくださり、
かつ彼の全き信仰を認め、聖霊を与えてくださったのであった。
このようにして神よりの権威を握ってギデオンはイスラエル救治の大使命を帯びて起った。
民族を糾合して自ら指揮を取り敵国ミデアンに当たったのであった。
隠して勝利をイスラエルの手に収めるようにされ、神の栄光を拝したのであった。
終わりの勧め
愛する兄弟姉妹よ、ギデオンの生涯について学び、彼のごとく神に用いられたいと思われなかったか。
信仰を試されたときに十分にその理由を悟りかねて失望した経験を持つならば、
もう一度神を見上げ、いかなる恐怖を出かしめるような試練に立つときも神は信仰を強め、
勝利を授け、道なき所に道を開き、試みがかえって信仰の練達となり、他の人々をも導くことができるから感謝である。