わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。(マタイ4章19節)
一、イエスに学ぶ(ルカ5章1ー3節)
『ゲネサレ湖』は、ガリラヤ湖という名で知られていますが、現在のイスラエルでは『ヤム・キネレテ』と呼ばれています。周りを緑の山で囲まれた美しい淡水湖です。
イエスの周りには、多くの群衆がひしめき合って教えを聞いていました。イエスがふと近くをごらんになると、ちょうど漁師が漁を終えて船を岸辺に上げ、網を洗っているのが目に入りました。イエスは、舟の持ち主のシモンに頼んで舟に乗ると、船の上から群衆に教えられました。さて、シモンは、兄弟のアンデレに紹介されて、イエスに会ったことがありました。その時、イエスから『ペテロ』というニックネームをもらいました。(ヨハネ1章42節)シモンは、イエスの説教を何度も聞いていたのではないでしょうか?
それで、他の人と同じようにイエスを敬っていたと思われます。でもイエスは、それで満足しておられませんでした。
私たちもただイエスを知っているとか、好きだとか思っているだけでは、イエスはお喜びにならないのです。
二、イエスに伏する(4ー9節)
では、イエスはシモンに何を求められたのでしょう。イエスはシモンと個人的に関わりを望んでおられたようです。そして、その前にイエスは、ご自分がどんな方なのかを示されます。シモンは、漁のプロです。小さい時から漁に出ていて、誰よりもよく知っていると自負していました。ちょうどその日は不漁で、シモンは諦めていました。そんなことは今まで何度もありましたから不思議でも何でもありません。ところがイエスは『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』(4節)と言われたのです。これはおかしなことだと思いませんか、イエスがどんなに立派な先生でも漁についてはシモンのほうが専門なのです。しかし、シモンはイエスのことばに従いました。もし従わなかったら、何も起こらなかったでしょうし、イエスについて何も知ることができなかったでしょう。イエスのことばに従った時、網が破れそうなほどの魚が取れたのです。
その時、シモンはどうしましたか。8節を読んでください。このことばには単に魚が取れたことへの驚き以上のものが見られます。それは、イエスのことばには、力があり、必ずことばどおりになること、イエスが、自分たちの知らないことを見抜く力を持っておられる方であること、その方が自分のような者と関係を持とうとされていることを知った驚きです。この時シモン・ペテロは、イエスの前では自分の力など通用しない、自分は罪深い罪人にすぎないことを実感し、イエスの前に自分自身を投げ出して、足元にひれ伏したのです。
三、イエスに従う(10、11節)
イエスが求めておられる関係とは、人間が自分の力に頼ってイエスと共に生きることではなく、自分を捨て、イエスのおことばと力に頼りにイエスと共に歩むことです。
イエスは、シモン・ペテロが全てを明け渡した時、新しい約束、使命を与えられました。それは『人間をとるようになる』というものでした。これは、神のもとに多くの人を導き連れてく仕事で、魚を取るより困難なことです。しかし、イエスに従っていれば、困難な仕事も、丁度、網が破れそうになるほど魚が取れたように、その仕事をやり遂げることができるのです。ペテロは、何もかもそこに置いたままでイエスに従いました。
主題=イエスのおことばにすぐ従う。