ぶどう園のたとえ

講師 東大阪エリムキリスト教会 牧師 竹腰明人師

テーマ『ぶどう園の例え』

聖句
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。(マタイ20:8-10)

聖書箇所=マタイ20:1?16

最初に確認しておきましょう。今回のメッセージでは、ぶどう園の主人を「イエス様」、ぶどう園を「教会」、労務者を「クリスチャン」、1デナリ(一日分の労働賃金)を「永遠の命」に置き換えてお話をすすめていきたいと思います。

一、神様は気前の良いお方

(マタイ20:1―7節を読んでみましょう。)

ぶどう園の主人は、朝早くからぶどう園で働く者に、1日働いた報酬として1デナリを与える約束をしました。(1デナリは現代では1万円ほどの価値だと考えられます) 次に、9時頃雇った労働者との間では1デナリ与える約束はせずに、相当のものを上げると約束しました。12時頃と3時頃に雇った労働者とも同じように相当のものを上げると約束しました。そして、最後に夕方の5時頃に労働者を雇いました。当時のぶどう園は収穫の時期は忙しく、日雇い労働者を雇って朝の6時から夕方の6時頃まで仕事をしました。ですから夕方5時頃から働いた者は1時間ほどしか働いていない事になります。時給に換算すれば、0.1デナリ以下の給料を受取る事に成ります。

(マタイ20:8-10節を読んでみましょう。)

仕事が終わり、一日の給料を精算する時が来ました。5時から雇われて1時間ほどしか働かけなかった者たちは1デナリ受け取りました。労働者たちは、その恵みに驚いて「主人は何と気前の良いお方だろう」と思った事でしょう。続いて午後3時、昼の12時、朝の9時の労働者たちも同じように1デナリ受け取りました。皆一様に「主人は何と気前の良いお方、恵み深いお方なのだろう」と感動した事でしょう。そこで、朝早くから働いた労働者たちは、誰よりも沢山働きましたので、約束以上の賃金、1デナリ以上受取る事が出来ると期待しましたが、約束通り1デナリでした。そこで、腹を立てて怒ってしまったのです。

(マタイ20:11―16節をよんでみましょう。)

あるクリスチャンホームの中で、なかなかイエス様を信じないお婆ちゃんがいたとしましょう。けれども病気にかかり、余命も残り少なくなった頃、死を間近にして救いを求め、イエス様を受け入れて救われました。もうほとんど礼拝にも通えず、奉仕もできず、十分に献金を捧げる事もできません。しかし、そのクリスチャンホームの家族全員は、年老いたお婆ちゃんの救いを心から喜ぶ事でしょう。なぜなら、心からお婆ちゃんの事を愛しているからです。また、「イエス様は不公平なお方だ」とも思いません。かえってイエス様が公平なお方であり、全ての人を等しく愛して下さっており、同じ救いを与え、同じ永遠の命を与えてくださる事に、心から感謝する事でしょう。 

ぶどう園を「教会」に置き換え、朝早くから働いた者、9時、12時、3時、5時に雇われた者を「クリスチャン」に置き換えて考えて見ましょう。幼い頃から教会に通うクリスチャンもいれば、10代、30代、60代、80代で教会に通い始める方もいます。礼拝を捧げた日数、伝道した人の数、捧げた献金は、それぞれに違います。しかし、誰もが同じ救い、同じ永遠の命を受取ります。「永遠のいのち」は働きや能力や捧げた献金とは関係なく、誰にも等しく与えられるものなのです。 

二、主の恵みを告げ知らせよう!

(マタイ20:6?7節を読んでみましょう。)

ぶどう園の主人は、仕事が終わる直前の5時にも市場に出ていき、労働者を捜しました。そして市場に立っている人たちを見つけ「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。」と聞きました。すると彼らは「だれも雇ってくれないからです。」と答えたのです。彼らは、有意義な一日を過したいと願っていた事でしょう。しかし、誰からも声をかけられなかったために、空しい時間を過ごす事になりました。ぶどう園の主人は、そのような彼らを憐れみ、ご自身の所有するぶどう園へと招いたのです。そのようにイエス様は、神の恵みを知らず、空しい人生を歩んでいる人々を今も捜しておられます。そして、そのような者を神の恵みの場、教会へと招いておられます。

(ヨハネ9:4節を読みましょう。)

誰も働く事の出来ない夜がくると書いてあります。 その夜とは、世界の終わりをさしています。今は、恵みの時、救いの日です。昼間であり、伝道の時です。収穫の時です。まだ夜は来ていませんが、もう夕暮れ時を迎えています。もうすぐ、主が来られます。収穫の時も終わりを迎えようとしています。しかし、まだ時間は残されています。ですから、「誰も、私にイエス様の事を伝えてくれなかったのです」「誰も、私に福音を伝えてくれなかったのです」「誰も、私を教会に誘ってくれなかったのです」という様な声を聞く事がないよう、1人でも多くの人々をイエス様の恵みの中に、教会へ招く者とされていきましょう。

上部へスクロール