イエスは、自然おも支配される。
聖句=『主があらしを静めると、風はないだ』 (詩篇107篇29節)
聖書箇所=マルコ4章35−41節
*聖書は、主なる神が自然の創造者であり支配者である、と繰り返し強調しています。出エジプトにおける葦の海の出来事から始まって、多くの奇跡がそのことを実証しています。詩篇107篇は、主なる神が自然のすべてを支配しておられることを、美しく描いています。『主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした』(25)『主があらしを静めると、風はないだ』(29)
そこには、自然を支配しておられる主なる神に対する信頼があり、そのゆえにあらしの中にあっても平安でいることができるのです。その詩篇のことばは、ガリラヤ湖であらしを静められた主イエスにもそのまま当てはまり、イエスが主なる神であることを暗示しています。主イエスを信頼する時、私たちはどのような人生のあらしの中でも平安に生きることができるのです。
マルコは、神の国をテーマに福音書を書き、イエスが自然も霊も死も支配しておられるという視点から、その奇跡を叙述しています(4章35=5章43節)。奇跡は神の国の現れであり、イエスがメシヤである証明です。
一、あらしが起こった(マルコ4章35−37節)
日が暮れ、群衆から離れて静かな休養のひとときを過ごすためにイエスがガリラヤ湖の東岸に渡ろうとされた時、突然激しい風が吹き始めたのです。四方を丘に囲まれるガリラヤ湖ではよくあることで、突風のために大波が起こり、舟は沈みそうになりました。
その時、イエスはとも(船尾)の方でまくらをして眠っておられました。船尾は客用で、枕や敷物が備えられていました。一日の激しい宣教の働きに疲れ果てておられたのか、或いは、あらしの中でも父なる神に信頼しきっておられたのでしょう。孔子は居眠りする弟子を『朽ち木!』と叱った。しかし、イエスはあらしの中でも熟睡しておられました。スケールの大きさを感じさせられます。
二、あらしに悩む(37、38節)
弟子たちは突然のあらしに慌てふためき我を失いました。彼らはガリラヤ湖の漁師であって湖のことは知り尽くしていたはずです。あらしの経験もあった。しかし、突然の危機に直面すると、知識も経験も役に立たないことがあります。そのうえ頼りにしていたイエスが眠り込んでいるのを見て、彼らはますます不安になりました。自分を見失い、不安に襲われた弟子たちは叫んで言いました。『先生。私たちが溺れて死にそうでも、何とも思わないのですか』(38節)。私たちも、突然の危機に直面すると、同じような誤りを犯します。自分を見失って、うまくいかないすべてを他人のせいにする。しかし、私たちは神に対する信頼を失って、他の者を非難する。しかし、私たちは、危機の中でこそ神に信頼し、自分を見失うことなく、冷静に対処していきたいものです。
三、あらしを静める〈39−41節)
イエスは起き上がって、風を叱りつけ『黙れ、静まれ』と言われました。するとたちまち風はやみ、大なぎになった。ここでイエスは、あらしに対して、あたかも意思のあるもののように語りかけておられます。また、弟子たちも『風や湖まで言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう』(41節)と互いに言い合っています。
この弟子たちのことばに、あらしを静められた奇跡の重要な意味が秘められています。第一は、『風や湖までいうことをきくとは、』で、イエスは自然をも従わせる力のある方であるということです。イエスが自然に対して奇跡を行われたのはこれが初めてでしたが、そのことによって、自然を支配する力のあることが強調されています〈詩篇107篇29節)。第二は『いったいこの方はどういう方なのだろう』で、イエスはどういう方であるかが問われています。弟子たちは、その恐るべき体験を通して、イエスがだれであるかを改めて考えさせられました。神の子としてのイエスの存在を知らされ、メシヤとしてのイエスを信じたのです。
〈祈りましょう)