自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5章44節)
but I say unto you, love your enemies, and pray for them that persecute you; ( Matthew 5 : 44 )
一、自分の敵をも自分の隣人として愛する(マタイ5章43ー47節)
旧約聖書の教え(律法) では、隣人は区別され、限定されていました。自分に敵対する者は、あくまで『敵』であって『隣人』ではありません。その意味では『自分の隣人を愛し敵を憎め』と教えられてきた人々に『しかし、わたしはあなたがたに言います』と主イエスは権威をもって命じられます。『自分の敵を愛し,迫害する者のため祈りなさい』と、
それに続けて『それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。てんの父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです』と教えておられます (45節)。イエスが隣人の対象を区別も限定もされなかったのは、父なる神が『悪い人にも雨を降らせてくださる』ように、愛の対象を区別したり限定したりせず、誰をも等しく愛してくださるお方であることをよく知っておられたからです。
二、『完全でありなさい』(マタイ5章48節)
自分を愛してくれる者を愛するなら、罪人の代表のような取税人や異邦人でもしています(46、47節)。『だから、(神の支配を受け入れている) あなたがたは、天の父が (愛の対象を区別も限定もしないことにおいて) 完全なように完全でありなさい』(48節) と言われます。十字架と復活の福音において示された『天の父』の完全な愛を豊かに受け、その『子ども』とされた愛と喜びの経験が深まれば深まるほど、その人は天の父と主イエスとの御霊に導かれて、自分の敵をも隣人として愛せずにいられない思いに駆られるようになるのです。
三、よいサマリヤ人のように(ルカ10章25ー37節)
律法の専門家が『では、私の隣人とは、だれのことですか』と質問しました。それに答えて語られたのが、よいサマリヤ人のたとえです。強盗に襲われて倒れていたユダヤ人を
通りかかった神に仕える身である祭司もレビ人も見過ごしにしました。このユダヤ人を助けたのは、当時ユダヤ人とは対立関係にあったサマリヤ人でした。敵をも隣人として愛したサマリヤ人のように、律法の専門家 (また私たち一人一人) に主は『あなたがたも行って、同じようにしなさい』と命じておられます(37節)。 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5章44節)