神に選ばれたダビデ

主題 神に選ばれたダビデ                   

 神は、私たちの外見や能力、性格ではなく、心の内に、主をより頼み、主を愛する思いがあるかどうかをごらんになる。

聖句=人はうわべを見るが、主は心を見る(?サムエル16章7節)

聖書箇所=?サムエル16章

*不従順の故に『主はあなたをイスラエルの王位から退けられた』と告げられたサウルは、罪に気づきながらも、実際に王位は奪われるとは思わないほど、霊的に鈍感な人物だったと思われます。『私は罪を犯しました』という告白も、神に対する真の告白ではなく、民の前に面目を立てたいがための、サムエルを欺くことばでした。(15•30)

『私といっしょの帰って、あなたの神、主を礼拝させてください』と懇願し、サムエルと共に帰りましたが、その後、死ぬまで、二度とサウルに会うことはありませんでした。サムエルはもともと王政が気に入らなかったのに(8•6)神の指示に従って心ならずもサウルに油を注いだのです。そのサウルが今、神から退けらました。一連の出来事を思い返すにつけても『あれはいったい何だったのか』と、神のみこころを量りかねて苦悩するサムエルの姿がうかがわれます。『サムエルは、サウルのことを悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた』(15•35)

一、エッサイのもとへ遣わされるサムエル(?サムエル16章1−5節)

 王位から退けられたサウルのことを思って悲しむサムエルに、主はベツレヘムに行くよう命じました。

そこに住むエッサイという人の息子の中に、次の王になるべき人がいるというのです。サウルの怒りを恐れて尻込みするサムエルに、主は具体的な指示をお与えになりました。『主にいけにえをささげに行く』という理由で出かけ、いけにえをささげているところに、エッサイ一家を招くようにとお命じなったのです。サムエルは早速ベツレヘムに行き、主のおことばどおりエッサイと息子たちを招きました。

二、油を注がれるダビデ(6−13節)

長男のエリアブを見た時、サムエルは、彼こそ神に選ばれた人だと思ったが『容貌や、背の高さを見てはならない』と譴責されます。なぜか。『人はうわべを見るが、主は心をみる』からです。『心を見る』とは、ご自身との関係をご覧になることです。サムエルの前に立ったエッサイの息子たちは、容貌も体格も、おそらく能力も優れた若者だったに違いありません。ところが、神の選びの基準にかな者はいませんでした。

 遠来の預言者から招かれるという特別な場面にダビデはいなかったのは、ただ末っ子だっただけでなく、父親からあまり評価されていなかったかもしれません。彼がゴリヤテと戦う直前のエリヤブのことば(17•28)からも、家庭内でのダビデの立場がうかがわれます。しかし神は、ダビデに油を注ぐようにお命じになりました。神はこの世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者をお選びになる (?コリント1章27、28節参照)。ダビデは父が所有するわずかな羊 (17•28)を守る少年にすぎませんでしたが、心はしっかりと神に結びつき、神と交わる喜びを知っていたのでしょう詩篇の百五十篇中、多くがダビデの作といわれ、それらはダビデのダビデの瞑想の深さを物語っています。

 サムエルが油を注ぐと『主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った』。この油注ぎは家族の前だけで行われ、その意味を、サムエルは本人にさえ告げなかったらしい。ダビデが公に任職の油を注がれるのは、これよりずっと後のことです(ユダの王として?サムエル2•4)、さらにイスラエル全家の王として(同5•3節)。

三、サウル王に仕えるダビデ(14ー23節)

『わざわいをもたらす神の霊』は、悪霊ではなく、さばきのための送られた神の霊であり、結果的に災いをもたらす。神との正しい関係を失った不安定な精神状態に陥った王を慰めるために琴の名手ダビデが推薦されました。彼は盗賊や野獣から羊を守る勇士であり、言葉に分別があり、体格もよい人でした。何よりも注目すべきは『主がこの人とともにおられ』ることが誰の目似も明らかだった点です。

 サウルはダビデを気に入り、道具持ちとして身近に置きました。サウルの精神状態が悪くなるたびに、ダビデが立琴を弾くと、災いをもたらす霊はサウルから離れ、元気を回復しました。一介の羊飼いの少年をイスラエルの君主とするために、神の御手が人知れず動き始めていたのです。

(祈りましょう)

 

主題 神に選ばれたダビデ                   (10月13日) 神は、私たちの外見や能力、性格ではなく、心の内に、主をより頼み、主を愛する思いがあるかどうかをごらんになる。聖句=人はうわべを見るが、主は心を見る(?サムエル16章7節)聖書箇所=?サムエル16章*不従順の故に『主はあなたをイスラエルの王位から退けられた』と告げられたサウルは、罪に気づきながらも、実際に王位は奪われるとは思わないほど、霊的に鈍感な人物だったと思われます。『私は罪を犯しました』という告白も、神に対する真の告白ではなく、民の前に面目を立てたいがための、サムエルを欺くことばでした。(15?30)『私といっしょの帰って、あなたの神、主を礼拝させてください』と懇願し、サムエルと共に帰りましたが、その後、死ぬまで、二度とサウルに会うことはありませんでした。サムエルはもともと王政が気に入らなかったのに(8?6)神の指示に従って心ならずもサウルに油を注いだのです。そのサウルが今、神から退けらました。一連の出来事を思い返すにつけても『あれはいったい何だったのか』と、神のみこころを量りかねて苦悩するサムエルの姿がうかがわれます。『サムエルは、サウルのことを悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた』(15?35)一、エッサイのもとへ遣わされるサムエル(?サムエル16章1?5節) 王位から退けられたサウルのことを思って悲しむサムエルに、主はベツレヘムに行くよう命じました。そこに住むエッサイという人の息子の中に、次の王になるべき人がいるというのです。サウルの怒りを恐れて尻込みするサムエルに、主は具体的な指示をお与えになりました。『主にいけにえをささげに行く』という理由で出かけ、いけにえをささげているところに、エッサイ一家を招くようにとお命じなったのです。サムエルは早速ベツレヘムに行き、主のおことばどおりエッサイと息子たちを招きました。二、油を注がれるダビデ(6?13節)長男のエリアブを見た時、サムエルは、彼こそ神に選ばれた人だと思ったが『容貌や、背の高さを見てはならない』と譴責されます。なぜか。『人はうわべを見るが、主は心をみる』からです。『心を見る』とは、ご自身との関係をご覧になることです。サムエルの前に立ったエッサイの息子たちは、容貌も体格も、おそらく能力も優れた若者だったに違いありません。ところが、神の選びの基準にかな者はいませんでした。 遠来の預言者から招かれるという特別な場面にダビデはいなかったのは、ただ末っ子だっただけでなく、父親からあまり評価されていなかったかもしれません。彼がゴリヤテと戦う直前のエリヤブのことば(17?28)からも、家庭内でのダビデの立場がうかがわれます。しかし神は、ダビデに油を注ぐようにお命じになりました。神はこの世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者をお選びになる (?コリント1章27、28節参照)。ダビデは父が所有するわずかな羊 (17?28)を守る少年にすぎませんでしたが、心はしっかりと神に結びつき、神と交わる喜びを知っていたのでしょう詩篇の百五十篇中、多くがダビデの作といわれ、それらはダビデのダビデの瞑想の深さを物語っています。 サムエルが油を注ぐと『主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った』。この油注ぎは家族の前だけで行われ、その意味を、サムエルは本人にさえ告げなかったらしい。ダビデが公に任職の油を注がれるのは、これよりずっと後のことです(ユダの王として?サムエル2?4)、さらにイスラエル全家の王として(同5?3節)。 三、サウル王に仕えるダビデ(14ー23節)『わざわいをもたらす神の霊』は、悪霊ではなく、さばきのための送られた神の霊であり、結果的に災いをもたらす。神との正しい関係を失った不安定な精神状態に陥った王を慰めるために琴の名手ダビデが推薦されました。彼は盗賊や野獣から羊を守る勇士であり、言葉に分別があり、体格もよい人でした。何よりも注目すべきは『主がこの人とともにおられ』ることが誰の目似も明らかだった点です。 サウルはダビデを気に入り、道具持ちとして身近に置きました。サウルの精神状態が悪くなるたびに、ダビデが立琴を弾くと、災いをもたらす霊はサウルから離れ、元気を回復しました。一介の羊飼いの少年をイスラエルの君主とするために、神の御手が人知れず動き始めていたのです。(祈りましょう) 

主題 神に選ばれたダビデ                   (10月13日) 神は、私たちの外見や能力、性格ではなく、心の内に、主をより頼み、主を愛する思いがあるかどうかをごらんになる。聖句=人はうわべを見るが、主は心を見る(?サムエル16章7節)聖書箇所=?サムエル16章*不従順の故に『主はあなたをイスラエルの王位から退けられた』と告げられたサウルは、罪に気づきながらも、実際に王位は奪われるとは思わないほど、霊的に鈍感な人物だったと思われます。『私は罪を犯しました』という告白も、神に対する真の告白ではなく、民の前に面目を立てたいがための、サムエルを欺くことばでした。(15?30)『私といっしょの帰って、あなたの神、主を礼拝させてください』と懇願し、サムエルと共に帰りましたが、その後、死ぬまで、二度とサウルに会うことはありませんでした。サムエルはもともと王政が気に入らなかったのに(8?6)神の指示に従って心ならずもサウルに油を注いだのです。そのサウルが今、神から退けらました。一連の出来事を思い返すにつけても『あれはいったい何だったのか』と、神のみこころを量りかねて苦悩するサムエルの姿がうかがわれます。『サムエルは、サウルのことを悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた』(15?35)一、エッサイのもとへ遣わされるサムエル(?サムエル16章1?5節) 王位から退けられたサウルのことを思って悲しむサムエルに、主はベツレヘムに行くよう命じました。そこに住むエッサイという人の息子の中に、次の王になるべき人がいるというのです。サウルの怒りを恐れて尻込みするサムエルに、主は具体的な指示をお与えになりました。『主にいけにえをささげに行く』という理由で出かけ、いけにえをささげているところに、エッサイ一家を招くようにとお命じなったのです。サムエルは早速ベツレヘムに行き、主のおことばどおりエッサイと息子たちを招きました。二、油を注がれるダビデ(6?13節)長男のエリアブを見た時、サムエルは、彼こそ神に選ばれた人だと思ったが『容貌や、背の高さを見てはならない』と譴責されます。なぜか。『人はうわべを見るが、主は心をみる』からです。『心を見る』とは、ご自身との関係をご覧になることです。サムエルの前に立ったエッサイの息子たちは、容貌も体格も、おそらく能力も優れた若者だったに違いありません。ところが、神の選びの基準にかな者はいませんでした。 遠来の預言者から招かれるという特別な場面にダビデはいなかったのは、ただ末っ子だっただけでなく、父親からあまり評価されていなかったかもしれません。彼がゴリヤテと戦う直前のエリヤブのことば(17?28)からも、家庭内でのダビデの立場がうかがわれます。しかし神は、ダビデに油を注ぐようにお命じになりました。神はこの世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者をお選びになる (?コリント1章27、28節参照)。ダビデは父が所有するわずかな羊 (17?28)を守る少年にすぎませんでしたが、心はしっかりと神に結びつき、神と交わる喜びを知っていたのでしょう詩篇の百五十篇中、多くがダビデの作といわれ、それらはダビデのダビデの瞑想の深さを物語っています。 サムエルが油を注ぐと『主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った』。この油注ぎは家族の前だけで行われ、その意味を、サムエルは本人にさえ告げなかったらしい。ダビデが公に任職の油を注がれるのは、これよりずっと後のことです(ユダの王として?サムエル2?4)、さらにイスラエル全家の王として(同5?3節)。 三、サウル王に仕えるダビデ(14ー23節)『わざわいをもたらす神の霊』は、悪霊ではなく、さばきのための送られた神の霊であり、結果的に災いをもたらす。神との正しい関係を失った不安定な精神状態に陥った王を慰めるために琴の名手ダビデが推薦されました。彼は盗賊や野獣から羊を守る勇士であり、言葉に分別があり、体格もよい人でした。何よりも注目すべきは『主がこの人とともにおられ』ることが誰の目似も明らかだった点です。 サウルはダビデを気に入り、道具持ちとして身近に置きました。サウルの精神状態が悪くなるたびに、ダビデが立琴を弾くと、災いをもたらす霊はサウルから離れ、元気を回復しました。一介の羊飼いの少年をイスラエルの君主とするために、神の御手が人知れず動き始めていたのです。(祈りましょう) 
p { margin-bottom: 0.25cm; line-height: 120%; }

上部へスクロール