わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるの
です。 (ヨハネ11章25節)
死んだラザロを生き返らせたしるしは、イエスがなさった最大のしるしです。このしるしを伝えるエピソードは、死と命、死と復活を主題とする内容豊かな物語です。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです』(25節)。と言われるイエスは、死からよみがえられた復活の主として、命を支配しておられます。
一、ラザロは死んで四日もたっていた(ヨハネ11章1−22節)
ベタニヤのマルタとマリヤ姉妹のことがルカ10章38節以下に出てきますが姉妹にはラザロという兄弟がいました。彼らをイエスは『愛しておられた』(5節)。そのラザロが重い病気であると知らされても、すぐにベタニヤに向かわず、『もう一度ユダヤに行こう』と言ってベタニヤに着いた時は、死後四日もたっていました(17節)。ラザロの死は歴然たる事実でした。イエスを迎えに出たマルタとマリヤは、無念そうに『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』と異口同音の言いまし(21節
32節)。息を引き取る前なら助かっても、死んで四日もたったのではどうしようもないと思ったのも無理からぬことです。
二、『わたしはよみがえりです。いのちです』(23−27節)
イエスは、マルタに向かって『あなたの兄弟はよみがえります』と言われました。
(23節)彼女が『今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることはなんでも、神はあなたにお与えになります』(22節)。といったので、それに答えて特にイエスが言われたのです。さらにマルタは『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています』と答えるが、それは彼女の信仰が教理的知識だけ(頭だけ) のものであったことを示しています。
彼女の頭だけの信仰に挑戦するかのように、イエスは『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。………このことを信じますか』と言われました(25、26節)。この言葉を語られているのは、十字架に死んで葬られたが、三日目に死者の中からよみがえって、今も生きておられる(復活の主・いのちの主)です。
復活のイエスのいのちは、死を征服したいのち、まさに『死んで生きるいのち』です。
この『いのち』をあなたは信じますか!
三、イエスが流された涙 (28-46節)
泣き悲しむマリヤを見てイエスも『涙を流された』(35節)。そして『霊の怒りを覚えながら』墓に来ると、入り口の石を取り除けるように命じ、ためらうマルタに『もしあなたが信じるなら神の栄光を見る』と言って、ラザロを生き返らせてくださいました (38−44節)イエスが流された深い同情の涙には、死から命を取り戻して、神の栄光を表さずには置かない決意と力に満ち溢れています。『よみがえりであり、いのちである』お方として、イエスは、御自らの死をもって、死カラいのちを取り戻して下さるのです。そのイエスが流される涙は、信じるものに罪のゆるしと永遠のいのちを与え『神の栄光を見る』ようにさせる恵みと愛の力を無限に秘めているのです。
*2月24日 生き返ったラザロ 聖書箇所=ヨハネ11章1−25節