私は無理様だよ!(込山 あつ子)

師は何時もそのように云われた。

この言葉は「不可能は無い」「信仰により可能也」と私は受けさせられたものでした。昭和二五年秋実り豊かな頃、神奈川県の母教会で特集にクート先生をお招 きし、初めてお逢いしたのですが、窓越しに大きな外人が玄関に立たれたお姿を見て「あら、クー トさんあんなに太られた!」と牧師先生が驚いてお迎えされたことを思い出します。

集会には一つ の赤いリンゴをポケットから出して、ガラテヤ書の御霊に就いてメッセージされました。外国式日 本語で全部聞き取るに困難でしたが、最后の恵みの座で「この中に婦人伝道者となる者がある」と 奨励された言葉は私の胸中につきささり”私がその者です”と答えたい程に只無言で前進しました その後半年過ぎ神の導きで聖書学院に献身が許され、以来三年間教室に於いて午后の働き場にあっ て、伝道の場所で絶えず師は信仰に生きることの実践を示し教導下さいました。

学生の期間には 「此々は訓練所だよ!」ときびしく、人間的に考えると「まあ!そんな無理を」と言葉を返えした い時にも「出来ない筈はないんだ!」「私の字典にその言葉が書いてない」と「私は無理様だ・・・」 「やっていらっしゃい。」そのようなことの繰り返しで押し出して下さいました。

其れ等の無理 と思ったことは信仰によって行動する時可能となることの訓練であったのです。 卒業間近い頃から 自分の願いは母教会に帰りたいことでしたが、その時身体を打たれ入院し遂にクート先生のお世話 になりまして、その御恩に少しなりとお返し致そうと決心に留まり十二年間何のお役にも立たぬ者 でしたが、憐みによって種々の奉仕の場が与えられたことを感謝しているものです。

其の間にクート先生も年老い、その上肉体に一つの刺がありましたが決してその弱さに負けない先生でした。時折「ホームに落着いて静養して下さい」と申し上げても「けれど沢山用事があるだよ!」とつき返えされては、重い身体を教室に事務所にと運ばれるばかりか、一ヶ月間隔に韓国へ往復されるのでした。

そればかりか、教団教会の諸問題あり、私共下々からの反逆行為もあることでした。又、経済的には決して豊かではなく、此の信仰の為には不思議な先生だと常に教えられました。先生御自身の生活は至って質素であり、御自分で食物を見計らったり、着物に至るまで心くばられて 尚公的多用の中に堅く立っていられました。そしてそれ等の中に何時も「神に在りて何でも出来る」ことを証しされていました。

でも召天される三年位前からでしたか? 「時々身体の弱さを訴えられたり、問題に直面された時など「どうすることも出来ませんワ」。祈って下さいと言ることもありました。其の後、身心の疲労が重なり或る時には大阪の地下鉄道上に倒れたこともあり、時には韓国からの帰途倒れ下関病院に収容されて迎えに行って来たこと等もありました。

米国へ引き揚げられる直前何回か早朝に変化があり心配しては「今日お休み下さい」と申し上げても責任を果す迄頑張りぬかれました 「私は無理だ!」とはこうまでかと思いましたが、遂にその無 理も自由にならぬ時が或る朝(S41年11月頃)やって来たのでした。身近な二、三人が走せかけた時には意識不明半身不随状態でした。

それでも出来る限り心残り無いよう処置を考じようと今度は私共が無理を通し牧師達一同は懸命に祈りながら大阪市内を急救車で走りぬき或る病院に運びました。
不思議にも数時間後に先生は覚醒されたのです。目ざめて仰言ったことは「私はどうしてこんな所にいるのか」。

「沢山用事があるから早く生駒へ帰える」と、そんな状態に至っても尚御自分の働きの為に気を配っていられる師に接し此の福音事業の為に本当に命がけであられたことを深く知らされたことでした。一週間後に退院されて、帰米されたまま一年過ぎて日本に帰って下さると期待していましたが、神の御許に帰えられたとの報に接した時師を失った悲しみは例えようもありませんでしたが、主の慰めの中に忍んだ時、師には与えられた分を終えられ永遠の休息に迎えられたことぞと感謝した次第です。

先生はまだ成されたい事が種々あったようですが、一番心配されていたことは此の教団のことであったと思います。
日本を愛し、ペンテコステの働きの為に何時も語られました。

「神の名を受けて生駒の地に座って祈った時”日本とペンテコステの為に”と示され草分けをされ教団本部と聖書学院が設立されたことを。」

そして現在七つの教会を残し私共に委せて下さったことですが、これ等を覚え教えられた聖書の信仰に立ちよき嗣業者でありたいと願っているものです。

京都救霊会館 牧師

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