主の祈り

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6章10節)

Thy kingdom come. Thy will be done, as in heaven, so on earth. (Matthew 6 : 10 )

一、どのような態度で祈るべきか(マタイ6章5−8節)
 教会で『どんなときも祈りましょう』と言われても、実際祈ろうとすると、どんなふうに祈ってよいのかわからなくて困惑してしまうことはありませんか? イエスはそんな私たちに、どのように祈るべきかを教えてくださいました。
 では、どのような態度で祈るべきなのでしょう。まず、5、6節を読んでください。祈りは、人に聞かせるためにするものではありません。祈りは、自分と神との間で、正直な思いをもってなさなければなりません。周りの人の思惑を気にしながらするものではないのです。どんなにことばがつたなくても、ありのままの思いを正直に申し上げるなら、主は喜んで耳を傾けてくださいます。
 次に、7節を読みましょう。呪文や念仏のように、心をこめづ、同じことばで繰り返し祈ることを主はお嫌いになります。しかし、主を信じつつ、あきらめないで同じ願いをささげることは何度してもよいのです。主の前に偽りの気持ちはないか。そして心から祈っているのか、自分の祈りを点検しましょう。

二、神に関する三つの祈り(マタイ6章9−10節)
 イエスは、具体的に何を祈るべきかを教えてくださいました。9、10節に記された最初の三つの祈りを見てみましょう。私たちは『御名があがめられますように』『御国が来ますように』『みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように』と祈らなければなりません。まづ私たちは、神の御支配の中に生きることが最善であること、みこころが行なわれることがベストであることを主に告白し、そのことを自分の心に深く刻まなければなりません。
 長いクリスチャン生活の中では、あることを一生懸命に願って、祈っても祈ってもかなわなかったという経験をすることが何度かあります。願いがかなわないことで、一時的にはつらかったり悲しかったりするのですが、後で必ず、自分の願いや思いどおりにいかなかったことやみこころが行なわれたことを主に感謝するのです。私たちの狭い了見では、先々まで見通した正しい判断はできません。主の正しさがあがめられ、みこころが、天においてだけではなく、私たちの生活の隅々にまで実現していくことを一番の願いとして主にささげましょう。

三、私たちの必要に関する三つの祈り(マタイ6章11ー13節)
 次に続く三つの祈りは、私たちに関する祈りです。イエスはこの世界に、人として生きて下さいましたから、私たちの肉体の弱さをよくご存知です。空腹がつらいこと、自分の罪を棚に上げて人を赦すことのできない心の持ち主であること、私たちのか細い力では、この世の誘惑には勝てないことを、知っていて下さるのです。主は私たちの生活のどんなことについても関心をもち、手を差し伸べて助けたいと思っておられます。こんなつまらないことを天におられる偉大な主に願うなんて申し訳ない。こんな祈りをしたら恥ずかしいなどと思う必要はありません。生活の必要を満たしていただけるよう、私たちの罪を赦し、人を赦す愛の力を与えていただけるよう、また誘惑に打ち勝つ力を注いで下さるよう日々主に祈り求める者となりましょう。

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