父よ。みこころならば,この杯をわたしから取りのけてください。しかし、
わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。 (ルカ22章42節)
“Father, if you are willing, teke this cup from me ; yet not my will, but yours be done.”
(Luke 22 : 42 ) New Internationai Versison
一、祈らずにはいられない思いに駆られたイエス(マタイ26章36ー38節)
ゲッセマネに来られたイエスは、目前に迫る十字架の苦 しみを前にして、祈らずにはいられない思いに駆られました。悲しみもだえるほどの苦しみを分かち合い、少しでも担ってくれる友として、イエスはぺテロとヤ コブとヨハネの三人を伴い『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで,わたしといっしょに目をさまして(祈って) いなさい』とお頼みになりました(38節)。31ー35節を読めば明白なように、その期待に彼らが応えられないことを知りつつも、一諸に祈ることをお頼み になったのは、イエスの苦悩がどれほど大きく、深いものであったかを示します。
しかし、こんな場面でも眠ってしまうような彼ら (そして私たち) には (40、43、45節)、イエスのお心など少しも理解できなかったのです。
二、『みこころのとおりにしてください』(マタイ26章39ー46節)
イエスは、地上生涯における最大の試練に遭遇されていました。
『父 よ。みこころならばこの(苦難の)杯をわたしから取りのけてください』と、三度も真剣にお祈りになりました (44節)。それにかかわらず、御父は沈黙しておられます。それは愛する御子の決断にすべてをゆだねておられたからです。その御父をイエスは愛して、どこ までも御父のみこころに従う決断をされたのです。
その決断が『しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください』という祈りに結実しているのです(39、ルカ22章42節)。 「みこころのとおり』とは、十字架の道に進むことです。
イエスが『みこころのとおりにしてください』と、十字架への道を進む決断をされたのは、こんな時に眠っているふがいない弟子たち (そして私たち)を罪から救うためでした。
こ の奥深い愛の決断の神秘の中に無限の福音が隠されています。眠っている弟子たちを起こし『見なさい,時が来ました。………さあ(わたし一人で十字架へ)行 くのです」と言われます(45、46節)。ご自分を見捨てて逃げ去る弟子たちのために十字架への道へと進むイエスのお心が、どれだけわかるでしょう。
三、『友よ。何のために来たのですか』(マタイ26章47ー56節)
イエスを逮捕するために祭司長や民の長老たちが差し向けた一団の先頭に立っていたのが『十二弟子のひとりであるユダ』です(47節)。彼はイエスに近づく と『先生。お元気で』と言って,合図の口づけをしました(49節)。そのユダに、イエスは『友よ。何のために来たのですか』と言われました(50節)。
十字架に進むことが御父のみこころであり『預言者たちの書が実現するため』であると知っておられたイエスは (56節)。ユダの裏切りを赦そうとしておられたのです。