使徒行伝2章4節(第1章~第3章)

第1章:彼ら皆、聖霊にて満たされ、御霊の宣べしむるままに異邦の言葉にて語りはじむ

2・30年以来キリスト教会の中には異言に対する論争が外の事についての論議よりも多い。
神のご教会に、この異邦の言葉の位置は、どんなに置かれるものであるかを悟らないで、
この全き神のご臨在である能力ある徴を捨てて省みないところの信者と、
異邦の言葉なるものは聖書には録されてあるので認めはするが、少しも肝要なるものであるとは思わないで
軽率に取り扱っている信者と、また聖書を深く究めた結果、異言の体験を与えられ、
聖書に表れた異言の徴による受霊によってくる恵み多い働き、利益を受ける信者と3種類の信者がある。

 私も元は異言のことを聞いて、
「一体異言などといって何の利益があるものなのだ、何に用いるためなのだ」
と言っていた一人である。
しかし表面に見える事のみが問題ではない、聖書にはこのことについてなんと記されてあるか、
外側には不必要のごとく見えても、真実に大切であるか無いかが問題なのであるという事を後に悟ったのである。

 我々は「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。
それらは彼には愚かなことだからです。
また、それを悟ることができません。
なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(第1コリント2章14節)との聖句を読んでも、
すぐに忘れてしまうほど愚かである。
ちょうど異言の詔詩に対しても、不信仰の人、悟りの無い者には、この聖句が、
そのままその人たちに当てはまるではないか。

 ゆえに全ての方面を研究して、聖書が語れば我も語る。聖書が黙せば我も説かぬという主義は、
信仰生涯の成功する原因であると信じる。
で、この記事によって聖霊を受けた読者には、ますます恵まれるように、
また経験の無い読者にはペンテコステの日の神の御技をいつも世界中になしうる神によって覚えられるように祈るものである。

第2章 異言に対する事実

1 旧約聖書に予言されている事

「まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。」(イザヤ書28章11節)

2 イエスも異言を語られたこと

「そして、3時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。」(マルコ伝15章34節)

「そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。」(マルコ伝5章41節)

3 イエスが約束し給う

「信じるものにはこれらの徴が伴う。すなわち我が名によりて悪い鬼を追い出し新しき言葉を語り」

この文の読者の中に、ありがたい経験を離れて以前の信仰の熱が冷め切った立場にいる人があるのであれば、
このイスラエル民族の堕落の状態を明らかに見ていただきたいと思う。

4 聖霊に満たされる最初の証據

「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」
(使徒行伝2章4節)

「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」(使徒行伝10章46節)

「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」
(使徒行伝19章6節)

5 異言の賜物の監督

第1コリント14章の記事については注意していただかなければならない。
これはパウロが異言の賜物を持っている人々に対する教訓であって、
使徒行伝にたくさんある聖霊のバプテスマの徴としての異言とはまったく別である。
この点の画然とした区別が分からないと、その混同の結果、大きな真理を失ってしまわねばならない。
第1コリント10章は確実にこの賜物について教えているのである。

6 新約聖書の記者ことごとく異言の徴を得ている

 パウロはペンテコステの日すなわち外の使徒達の満たされた
「彼ら聖霊にて満たされ、御霊の述べられるままに異邦の言葉にて語り始める」
その場には居合わさなかったのであるが、彼自身が
「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、」
(第1コリント14章18節と確実な証言をしているのである。

第3章

1 聖霊に満たされる最初の徴

 ある人は多分「そこまではあなたの言う事を認められるけれども、
確実に聖霊に満たされる証據は異言であると主張されるならば、どうしても反対である」と言われるであろう。

 だがイザヤ書8章20節には、こう記されてある。

「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。」と。

 使徒行伝に記された聖霊降臨を分解して、祈りと共に、聖霊がこの点についていかにして教え給うかを注意して尋ねよう。

 1、明らかに異言の記されてある個所を調べて。

 2、聖霊の折りたもうた、異言の記されていない個所を調べる。

 異言の伴っている事が記されてある聖霊降臨のところは

 1、使徒行伝2章のユダヤ人の上に、エルサレムにおいてペンテコステの日

 2、使徒行伝10章、異邦人の上にコルネリオの家において

 3、使徒行伝19章、エペソの町の数人の信者の上に

いかに異言を認めなくても使徒行伝中の3ヶ所に記された、聖霊を受けた人々の語った異言は、
聖霊を固く信じる人ならば認めざるを得ないであろう。

 エルサレムにおける聖霊の降臨人々が静かに考えるならば

このペンテコステの日の聖霊降臨の事実はあまりにも有名であるから詳しく記す必要はない。
主が弟子達に「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 」(使徒行伝1章4節)
と命じられることはヨハネ伝14章の16・7節「わたしは父にお願いします。
そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。
世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。
しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
を読むならば、使徒行伝1章4節の「父の約束を待て」とのご命令が明らかに
このヨハネ伝14章16・7節の事を成就させるためであった事を知るのである。

更に17節を分かりよく分解してみれば、

 1 汝らはこれ(聖霊)を知る

 2 彼は(聖霊)汝らと共におり

 3 また(聖霊)汝らの中にいたまう

となる。

これは主イエスのご予言であり約束である。
ゆえにエルサレムを離れずして我より聞いた父の約束を待てと申された事は明らかであって弟子達も
ペンテコステの日の前には固くこれを信じていたのであった。

人々が静かに考えるならば、聖霊を信じる事よりも共にいる事は優った恵みであり、
中に宿り給うことは更に深き大きな恵みである事が知られるであろう。
そして、その宿り給う事はペンテコステの聖霊のバプテスマというのである。

これがその時代には(勿論現代においても)ご教会の事業を遂行するためにはぜひ必要なものであったから主は
「約束を待て」とお命じあそばされたのであった。

序に「待て」との仰せに対する一般的解釈が聊か誤られていることを訂正しておきたい。
大方の人々はこの理由を「10日間待ち望んでいた弟子達は、
己を反省三省して古き人をことごとく追い出し、
神の前に人の前にまったく謙って心霊の準備をするためであった」と解釈する。
確かに10日の待望の期間は彼らにとって随分恵まれた期間に違いなかったろうが、
待望の理由は生涯を清めるためではなかったのである。

なぜならイエスはすでにヨハネ伝15章3節において
「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
と仰せになっておられるからである。
決して彼らは10日の間懺悔をしたり、反省ばかりしてはいなかった。
むしろその反対である事がルカ伝24章52・3節には記されている。
すなわち「彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」とある。
また使徒行伝1章14節にも「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、
およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」とあるのである。

と言って、ペンテコステの聖霊のバプテスマを受けるために心の準備は必要で無いという意味ではない。
ただペンテコステに至る10日間の待望の理由はそのためでは無いという意味である。
しからば何故に待望の理由があったかと言えば、聖書には明らかに

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ伝7章38・9節)

「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、
今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(使徒行伝2章33節)と記されているのである。

なおペンテコステの日にはいかなる出来事が有ったかを詳しく研究してみたいと思う。
使徒行伝2章に記された事は簡単である。弟子達と信者達とが引き続いて主イエスの「約束を待て」とのご命令に従っていた。

恰も五旬節の日の朝だった。我に大風のごとき天来の大音響が集会の家中に満ち、
また炎のごとき物が現れて、各自の頭上に留まると彼らはみな聖霊に満たされて聖霊が述べられるままに異邦の言葉を持って語ったのであった。

 彼らが炎の経験を受け、聖霊に満たされて、ことごとく異言を語ったと記されている事にご注意を願いたい。

これより異言が外国語であった事は集まった人々によって証明された。
「ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、
私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」 (使徒行伝2章11節)
とあって、明らかに第一に降りたもうたペンテコステの日の聖霊は異なる国語があった事が確実であり、
マルコ伝16章7節「新しき言葉を語り」の成就として彼らが異言を語らせられたのであった事は疑いの余地が無い。

ある反対者は「ペンテコステの日に異言があったから今も異言を語らないといけないはずであると言うならば、
その日と同じ音響や炎も伴わないといけないし、異邦人もその証人としてそばにいる事も必要であろう」
と一面もっともらしい事を申されるかもしれない。
しかし我らは、いかなる場合にも聖書に立脚して事を断定する。聖書は我らを導くものであるから、
ただそれにのみ照合して解釈を下すのである。

聖書中には聖霊の降臨の有り様が幾回も記録されているが、使徒行伝2章以外には激しい風のごとき大音響も、
また炎のごときものも伴ってはいない。ただ何時でも聖霊降臨に伴っているのは異言の徴ばかりなのである。

またコルネリオの家、エペソの町の聖霊降臨に異言は現れてはいたが、
異国人が集まっていた訳でもなく何国語であるのか、何を語ったかと釈する者もいなかったのであるが、
聖書は明確に聖霊の降りてくださったものであると証明してくれる。
異言の研究をすればするほど不思議に思われる事は、使徒行伝中、聖霊の降り給うときの神の御力の顕れは、
色々所々、時々によって異なってはいるけれども、ご聖霊のバプテスマの証據は、
ただ異言のみに表れているから賛美したい。

2 異邦人の上の聖霊降臨

使徒行伝10章には異言の徴による聖霊降臨の第2の記事が載っている。
この異邦人への聖霊降臨の有り様は第2章においての有り様と余りに相違の点の多い事を発見する。
ゆえにこの両者は比較研究には実に格好の好材料である。と共に、
その研究の結果は確実に使徒行伝中における聖霊の降臨には必ず異邦の言葉が徴として
伴っている事を明らかに知るのである。

この両者の比較、すなわちユダヤ人と異邦人との上の聖霊降臨の状態、その準備、
現象、結果などの様々の点においてまったく相違し、ただぴったりと符節を合わせる点は
「異邦の言葉」のみであるのを見る。

実にこれは重要な聖霊のバプテスマに対する根本義であるから、
一目瞭然たる下の表をもってご参考に供したい。

比較要素 使徒行伝2章 使徒行伝10章 何国人 ユダヤ人 異邦人 準備 10日間の待望 神を畏れつつ聖霊の知識は無し 受霊の時 座して待望する 説教を聞きながら 現象 風、炎、体の震動 何ら無し 結果 群集は驚異
他国人が福音を聞く
3000人が救われる
傍らに1人もいない
他国人は1人もいない
救われた者はいなかった 一致点 両者は異邦語を語るという点のみが一致する

斯くペンテコステの日の聖霊降臨と、コルネリオの宅における聖霊降臨とを比較研究して、
いずれの方面より考察しても全く符節を合わせているのは異邦の言葉を語ったことただ一点のみ。
その外には決して共通の箇所を発見することができない。
実にこの場合のこの異言は聖霊御発動の証據のために最も重要な役割を持っているのである。

45節を読むならば、異邦人にはペンテコステの御恵みは与えられるもので無いと思っていた。
ペテロと同行したユダヤ人たちがこのコルネリオの家の出来事を目撃して非常に驚いたのであった。
なぜなら異邦人の彼らも今目前におのれらと同じ体験を持って異言を語って、神を崇めていたからである。

 「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである」と。(46節)

これには如何にユダヤ人と謂えども神の御業を肯定せずにはいられないに定まっている。
將しく異邦人の彼らもユダヤ人と同じく聖霊のバプテスマを受けたのであった。しかも方言の徴をもって、
否異邦の言葉がなければ受霊の証拠にはならないのである。

続いて11章を研究して見るならば、この噂がユダヤにいる使徒たち兄弟たちの耳にも入り、
ペテロがエルサレムに帰ったときには異邦人に伝道することを神の御意でないと信じていた。
割礼ある使徒たち兄弟たちがペテロの曲事を正すべく彼を詰ったのであった。

11章の4節には「そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。」と記されてある。
ペテロは順々と在りし事どもをつぶさに説き来たり説き去ったのであった。
聞いて彼らは黙然たらざるを得なかったのである。
やがてペテロの心事、ペテロの服従、神の大いなる憐憫と御業とを諒解し、悟って賛美したのであった。
人々はこれを聞いて黙然たりしが、やがて神を崇めて言う。
「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と。(18節)

斯くもペテロが弟子たち兄弟たちの難詰の峰を見事に納めしめ得たかを考えるならば、
彼は自己の行為に対して全く神の御意であったという確信ある証明があったからであった。
その「確信ある証明」とは何か、即ち17節の「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、
神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになった」ところの賜物、異言であったから感謝したい。

予の確信する事は、もしコルネリオの家における聖霊降臨に異言の徴が伴って無かったならば、
ペテロもかの弟子たち兄弟たちの難詰に対して異邦人たちにも聖霊を与えられた事の確実な証明に窮したであろう事である。

同じく15節
「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。」
とあるが、我々がペテロの言葉を確実であると信じるならば、如何にしても聖霊のバプテスマの証據は
「異邦の言葉」ただ一つであることがいよいよ明らかになるのである。

我々が2章と10章を比較して、その原因や権限や結果など各方面を詳細に研究を遂げても、
「異邦の言葉」を措いて一点半句も符節を合わせる点を発見できないのである。

さらに一歩進んで、この説に反対される人に質問したい。
「異言の徴を外にして2章10節の聖霊のバプテスマに於いて初め我らの上に降りし如しの
言葉を立証しうる一致点を何処に発見し得るか」と。

現代のキリスト教会に欠けた大いなるものは何であろうか。予は躊躇なく断言できる。
「使徒行伝の2章の初代教会に与えられた聖霊のバプテスマである」と。
実に、これは現代の一個人個人にぜひ必要なものではないだろうか。断然そうである。
とするならば異言の徴による体験の無い者は初代教会に於ける如く、
確然と聖霊を受けたとの発表が不可能である。眞に同じ賜物を与えられてみると、
その体験者だけは今においてもこの大いなる恵みとみわざのあることを悟り得るのである。

3 エペソの町における聖霊降臨

使徒行伝19章を見るならば、一節にパウロが伝道旅行の足を擦り減らして
エペソの町にたどり着いた事が記されている。
異邦人の使徒として神の選びを受けている彼は早速その町のある弟人達に会って、
まず「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と質問したのであった。
パウロがなぜ第一にこんな質問をしたかについては詳しく聖書に載ってはいないけれども、
彼らとの談話中、何かしら信仰経験において足りないことを
彼らの中に感じられたからに違いないと察するに難くないであろう。

パウロは熱心な伝道者アポロがエペソ町において伝道していたことを知り、
この人々もアポロによって導かれた信者であると知っていたかもしれない。
何人も周知のごとくアポロはそのとき聖霊のバプテスマを受けていなかった。
彼はただ「この人は先に主の道を教えられ、
ただヨハネのバプテスマを知るのみなれど熱心にして詳細にイエスの事を悟り、かつ教えたり」
にすぎない人物であった。
それでパウロの質問に人々は「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」
と答えたのであったが、それを通してその弟子たちの霊的状態が十分に察知する事ができ、
パウロの感じたことに少しの誤りもなかったことが分かるのである。

パウロは親切に詳しく、主イエスの事なども説き聞かせたであろう。
彼らはそれを聞くと早速イエスの名によるバプテスマを受けたのであった。
直後パウロが彼らに按手するや、聖霊がその上に臨んで、みな異言を語り、かつ予言したのである。

この記事を読みながら感じられることは、
この信者たちが今まで聖霊のあることすら知らなかった人々であっても、
一回のパウロの説明にかくも鮮やかに聖霊のバプテスマを授けられたのを見るならば、
受霊の条件は必ずしも長い間の待望を必要としないということである。

猶パウロの徹底した信念、すなわち
「キリストの信者であるならば何人でも必ず聖霊のバプテスマは受けなければならないものである」
との主張を持っていた事をも察せられるのである。
しかも異言が必ず伴ったところのものであって、良い塩梅な独り定の聖霊の証しのない自己満足にしか
過ぎない程度の物でないことは明らかであった。
このエペソの町の出来事の中には2章のごとき烈しい風のごとき響きも起こらなかったし、
炎のごとき舌のようなものも各自の上に止まった現象があったのでもなかった。

多くの群衆が集まって「我が国語にて彼らが神の大いなる御業を語るを聞くとは」
などと驚いたということも記録されていないし、多分そうした色々な現われがあったのでも無かっただろうけれども、
彼らが聖霊によってバプテスマされたときに、前述の記録と同じ異言のみは明らかに現れている事実は
如何にしても否定も抹殺も排斥もできないところのものである。

上部へスクロール