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(2007-01-24)

「使徒行伝2章4節(第4章?第8章)」

  

第4章 異なる国語の明記されない使徒行伝中の聖霊降臨


これは使徒行伝全般に渉って論及すれば、たくさんあるかも知れないけれども、そ
の中において最も重要な4点を摘出して本論をすすめることにする。

1、使徒行伝4章31節

 主の名の故に捕らえられて衆議所に曳かれたペテロとヨハネが、
キリストの名によって教えることと伝道することを禁じられて脅かされた上に釈されて帰ると、
ありし事どもを語り合い、かつ主を賛美しつつ祈った時に「その集まっていた場所が震い動き、
一同は聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語り出した。」ことと。


2、使徒行伝8章17節

 「ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」すなわち有名なサマリ
ヤのリバイバルと。

3、使徒行伝9章17節

そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう
言った。
「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現れになった主イエスが、私を遣わされました。
あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」すなわち大聖パウロの改心の時と。

4、使徒行伝13章52節

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。との4ケ所。
これ以外にも聖霊が降り給うた記事はなおあるだろうけれども、
この4ケ所は最も顕著な箇所であるから本論の資料に引照したわけである。

1)使徒行伝4章31節

この記事にはずいぶん満たされ恵まれた有り様が載せられてあるが、別して問題のない所である。
ペテロとヨハネとが衆議所から釈放されて帰ってくると、両人のために祈っていたことであろう使徒たちや兄弟たちが、彼らの証を聞きます聞きます。
神を崇めて賛美と、歓喜と勇気とに満ちて、更に栄光を顕さしめられるべく、
豊かな豊かな聖霊の御臨在を拝したのではあったけれども、本記事は確実に聖霊のバプテスマの記録ではない。

なぜならば、そこに会合していたところの人々は、みな先にペンテコステの日において聖霊のバプテスマを
受けた人々であって、改めて異言の徴を必ずしも必要とする人たちではなかったからである。
再び恵まれ、満たされる者にとっては異言の伴う、伴わないは少しも問題ではない。

故に聖霊のバプテスマには必ず異言の徴がなければならぬと主張する者にとっても、
この記事によしや異言が記されておらなくとも、何ら差しつかえはないのである。
で、この4章31節は聖霊のバプテスマの記事ではなく、再び恵まれたことの記録であることは論のないところであろう。

2)使徒行伝8章17節

これはサマリヤ市に於ける聖霊降臨の記録、本論中実に興味のある項である。
また重要なところであって、異言反対論者がその反駁論の材料によく用いられる章、節である。
もちろんここでは前項の論法は成立しない。聖霊を受けられた者と言えばピリポただ一人であったろうから。

また異言を語ったということも半言隻句も記されておらずに聖霊を受けたということは明確に記載されているから、
この章を突き付けられるとすれば必ず異言の徴を主張する者にとっては口を噤まざるを得ないように思われる。
けれどもここで注意して頂かねばならないことは、異邦の言葉を語ったとは書いてないけれども
語らなかったとも書いてないのを見れば、反駁論者が否定の材料とするも、大した効果はもたらさないであろう。
故に字句の上から論ずるなら確証については双方共に立証はできない。

しかし特別に祈って詳細綿密に聖書を調べるならば、この8章の聖霊降臨は2章のエルサレムに於けるごとく、
またコルネリオの家に於けると同様に、鮮やかに異言の徴が見えてくるから面白いのである。
左にサマリヤのリバイバルを分類して御参考に供したい。心を開いてお読み願いたいと思う。
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イ、聖霊降臨前のこのリバイバルが及ぼした広さ、深さの範囲
ロ、信者たちの受霊(もちろん異言による聖霊のバプテスマ)に対するペテロとヨハネの権威
ハ、聖霊を受けざりし唯一人、魔術者シモンと彼に対するペテロの酷烈なる譴責
---------------------------------
イ、聖霊降臨前のリバイバルが及ぼした広さ深さの範囲

  聖霊降臨以前すでにサマリヤには大いなるリバイバルがあった。それを分記すれば、

 1、群集はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって彼の語ることに耳を傾けた。
 (8章6節)

 2、「汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、」(8章7節)
 3、「大勢の中風の者や」(8章7節)
 4、「足のきかない者は直ったからである。」(8章7節)
 5、「それでその町に大きな喜びが起こった。」(8章8節) などである。

もし今の時代に我らの町において、こうしたリバイバルが起ったとすれば、誰人も
「おぉ何々町には聖霊が下った」と言い伝えるに違いない。
多くの穢れた霊、中風病、跛者などが、どんどん癒されて市中を挙げて大いなる歓喜に満たされている。
大きな働きの起っている真っ最中にある人が来て、もし
「何、これが聖霊の降臨などであるものか、聖霊などは別なものだ」とでも言おうものなら、
確かに人々は彼を狂人扱いにし、さもなくば極端な人間として相手になどはしないかも知れない。

けれどもこの極端を聖書は大胆に記録している。
すなわち「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、
聖霊がまだ誰にも下っておられなかったからである。」と(8章16節)この大いなる奇蹟が行われ、
この歓喜に満たされた非常な働きが見えても明らかに聖霊はその中の一人にすら降ってはいなかったのであった。
故にその範囲がかくも広くはあったけれども、深さの点においてまだまだ足りないところがあったのである。

ロ、信者の受霊に対するペテロとヨハネの権威

我々がこの章のみでも一字一字を等閑にせず熟読するならば本当にその大いなる出来事に驚かずにはいられない。
エルサレムにいる使徒たちも「サマリヤ人が神の御言葉を受けた」と聞いて、早速ペテロとヨハネを派遣したのであった。
サマリヤに彼らが到着するや否や、ピリピが2人に事細かに報告したかどうかは聖書が黙っているので知るによしないけれども、
2人の使徒たちは人々の聖霊を受けることを早速祈ったのである。この点は肝要なところである。

彼らは先ず人々が聖霊を受けるように祈った。
もちろん人々は聖霊のバプテスマを未だ受けてないことを知っていたからに違いないが、
何を聞き、何を見てそれが分かっていたかが問題である。
人は「もちろんピリポからそれくらいの事は聞いたに違いなかろう」と言うであろうけれども、
ピリポが何によってこの恵まれた歓喜の満たされた有り様を見、かつ経験しており、
乍ら聖霊のバプテスマは未だ一人も受けておらないと断言し得たか彼らはイエスの御名によってバプテスマも受け、
不思議な聖業も見ていたのであったが彼はそう言った。

ピリポ自身は使徒行伝六章の御霊と知恵に満たされた7人の長老の中の一人でペンテコステの日に
異言の徴をもって受霊した者であったから、物事を軽卒に考えて取扱う人ではなかったのである。
今の社会に、もしこんなことがあったと仮定する。
教会のないある町に迫害のために散らされた信者が辿り着いて福音を宣伝する。

人々は非常に喜んでこれを受け入れ、主の名によって不思議な多くの御業が行われて、病人は癒され、
悪鬼が追い出されるなどの事があり、ために町中が挙つて信仰を告白し、主の僕となり歓喜に満たされている。

ところへペンテコステの恵みを受けた伝道者が大リバイバルの起った町に来て
「君たちは未だ聖霊を受けていないから受けねばならない」と言ったとすればどうであろう。
もし聖書に異言が聖霊のバプテスマの徴だと記されていなかったなら、
その伝道者のこの大リバイバルの起っているところでそうした勧めをする言行は、
全く極端なことであって、リバイバルが起っている町の人々には躓きとこそなれ、
何の恵みをも来らせることにはならないであろう。

けれどもそれに反して聖書が受霊の徴は異言なりと明記しておれば、いかに幾百人の病人が癒され、
町中に溢れるほどの歓喜があったとしても、異言の徴が現れていなければ、
その事実はその町にまだ聖霊のバプテスマは未だであると言い切れるであろう。
御昇天に先立って主イエスは弟子たちに対して「エルサレムを離れずして我より聞きし父の約束を待て」
と御命令なされたが、現今に於ても同じく伝道者、牧師、宣教師は信者、求道者たちが聖霊のバプテスマを
受けるために祈らねばならないのである。而して祈る彼らが異言をもって
神を崇めるのを聞き得るならばペテロの如くに「聖霊かれらの上に降りたもう。

初め我らの上に降りし如し」と明言し得るであろう。
ペテロとヨハネが明らかにサマリヤの人々に対して聖霊を受けていないと断言し得た権威と彼らの上に按手するや、
その人々に聖霊の降り給うた権威を権威付けるものは何であったか。ただ異言の現れのみでないか。
異言の事実こそそれほどに使徒たちをして断言せしめ得た権威の捺印であったのである。

ハ、聖霊を受けざりし唯一人、魔術者シモンと彼に対するペテロの酷烈なる譴責魔術師シモンはサマリヤ人、
小より大に至る凡ての人から「この人はいわゆる神の大能なり」と言われた者であったが
ピリポの伝道により彼も信じてバプテスマを受けピリポと常に寝食を共にしてピリポの行う大なる徴を見て驚いていたのであった。
ところがそこへペテロとヨハネが来て、彼らの上に按手して祈るとみな聖霊を受けたのである。

けれどもただ一人シモンのみはその栄光ある経験を受けることができなかった。
彼ばかりには聖霊が降らなかったのであった。
彼は己一人がその大いなる恵みから除外されているので到底我慢することができなかった。
ついに彼はどっしり入った金袋を携えて来て
「わが手を按く凡ての人の聖霊を受けるようにこの権威を我にも与えよ」と願い出たのであった。
 
シモンがかくも欲しがった権威は何であったかちょっと考えてみたい。彼が聖霊を受けるようと言っているのを見ると、
今まであったところの癒し、歓喜を指しているのではないことは明瞭で、
また今までのものが聖霊でなかった(というのは聖霊のバプテスマを指す)ということも明らかである。
彼は使徒たちの按手によって起った今までにかつてない満たされ方を見たのであった。

すなわち異言をもって神を崇めている幸福を見たのであった。
それでなければ8章の記事は符合しない。
確かに彼が異常な顕現を目撃した結果であるに違いないのである。
魔術師シモンには、今までにあった悪魔を追い出し、跛者を立たせたよりも以上の能力を聖霊降臨の上に見、
それを買いたくなったのである。彼がそれほどまでに欲求した原因は左の2つの中の1つであろう。

1、
外の者が聖霊を受けて異なる国語を語るのを聞き乍ら自分は、自分は神の前に悔い改めがなかったので聖霊を受けることができなかった事

2、
按手によって一人ひとりが受霊してエルサレム、エペソ、コルネリオの家と同じく異言をもって神を崇めた事
 現今の異言を信じない併し聖霊のバプテスマは信じる教派の年会か大会に出席してみると、
集会が始まるとどうしても「聖霊を受けねばならない」という熱心な説教がある。

みな本気に飢え乾きを覚えて、説教が済むとすぐに跪いて祈り出す。初めは静かに、
やがてあちらこちらから燃やされたような祈り声が聞こえてくると手を打ち、足を踏みならし、声を涸らして
「主よ、信じます。おお主よ、聖霊を与え給え」と熱狂して恵まれて祈る。

集会が終わると今度は「証し会」が始まる。
そうして満たされた人から「私は聖霊のバプテスマを受けました」と証しがある。
恵まれた多くの証しがあって、今年の大会、年会は大いに恵まれた」と感謝しながら閉会ということになる。
そうして来年の大会にはその人々がまたもっと満たされると「今年こそ本当の聖霊を受けた」と証し合う。
と、こうした具合で毎年繰り返す。

ところで借問したいことは、もしそこに魔術者シモンが居ったならば、
その有り様を見て「我にもその権威を与えよ」と言ってどっしりと入った金袋を携えて
来て売ってくれと願い出るであろうか。
おそらくは疑問であろうと思う。確かにその集会は恵まれ潔められ祝福を
受けるために御霊が働き給うに違いない。
けれども使徒行伝2章のペンテコステの恵みが欠けていた。
なぜなら異言の徴が伴っていなかったから、どうしても足りないものがあるのである。

ペテロのシモンに対する酷烈なる譴責を聞け。
彼はシモンが権威を買いたいと願い出ない中から彼の奸を看破しておった故に、

「あなたの金は、あなたと共に滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。
あなたの心が神の前に正しくないからです。
だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」(使徒行伝8章20?23節)

とペテロが斯く叱咤する慧眼と権威が何処にあったか。
言うまでもなく彼ひとりは異言の徴を与えられなかったことを奇怪に思い、
何らかそこに伏在しているのを看ていたのであった。
果たして彼は金を携え来て自らその曲った心中を露け出したのであった。
ピリピが彼の奸悪を洞察し得なかったかも知れないけれども、聖霊は欺ることができなかった。
故に彼ひとりは多いなる御恵みから除かれていたのであった。

何人でも数ある人の中でただ一人聖霊を受けられないでいるのを看るならば、
その者に何か濁ったものが腹にあることを察せられるであろう。況や天国の鍵を授けられているペテロにおいておやである。
故にサマリヤの聖霊降臨に於ての異言は実に大いなる働きをしたのであった。すなわち真の信者、偽の信者を明らかに区別したのである。

3)使徒行伝9章17節

ダマスコ途上におけるパウロの改心はあまりにも有名である。
光と御声とに打たれた彼は、俄か盲となって人の手に曳かれ、ダマスコに辿り行く身となったのである。
かくて彼は3日の間食わず飲まず実に不思議な遭いし事どもを思いめぐらしつつ祈っていたのである。
あたかもその時アナニヤという弟子に主は顕れ給うて
「アナニヤよ起きて直という町に往き、ユダの家にてサウロというタルソ人を訪ねよ。彼は祈り居るなり」と
命じ給うたのである。

サウロのいかなる人間であるかを噂に聞き知っているアナニヤは、
ただちに主の言葉を解し得なかったが、主の重ねて言い給うに畏ってサウロが宿の戸を叩いたのであった。
彼は「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現れになった主イエスが、
私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」(9章17節)

と來意を告げると共に按手して彼のために祈ったのであるが、
すなわち鱗のごときものが目より落ちて見ゆるようになり、ただちにバプテスマを受けたのであった。
けれどもこの時聖霊を受けたとも異言を語ったとも明言がないので断言はできないがコリント前書14章18節の
「私は、あなたがたの誰よりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、」
と言っているのを見れば聖霊にて満たされんために遣わされたアナニヤに按手して祈ってもらった時に、
水のバプテスマを受けると共に聖霊も異言の徴によって与えられたであろうとは察するに難くない。

それはあまりに極端な推論であるように見え、そしてまた、その時に異言に依る受霊がなかったにしても少しも論がない。
なぜなら、その後必ずペンテコステの日の通り異言で聖霊のバプテスマを受けているのは確実であるからである。
また或る人は「私は、あなたがたの誰よりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、」というのを、
彼の教育が然らしめるのであって、聖霊によって語るのではないと解釈するが、
それでは教育などを糞土の如く捨てたという彼の決心とは符合しなくなる。

教育を糞土の如く思う彼が教育によって異言を語るとするならば、
神に感謝するというのは彼の思想から考えて不合理であるからもちろん教育の如何で異言を人よりも多く語ったのではない。
彼が異言を多く語ることを神に感謝する理由は、神によって語らしめられる神の力の賛美であり、
聖霊ご自身の言葉であるからに違いないのである。

4)使徒行伝13章51?52節

パウロとバルナバと相携えてのアンテオケ伝道は大いに恵まれて効果があった。
けれども迫害も激しかった。ついに反対者の策動に乗せられて2人は追い出されてイコニオムの町にやって来たのであった。
この町は満たされていた。その状態が52節である。これを観察するならば、
2人が町を訪れたと聞くや人々は更に歓喜し、更に満たされたのであった。

ここにはよし異言がないとしても再三の盈満だから問題ではない。
これまでに異言の顕われているところと異言の顕われない箇所とを対照して研究した。
そこで初代教会よりの歴史を詳しく研究した者ならば、
そしてまた聖書に従順な人であるならば、自分が異言を好こうが好くまいか、
語りたかろうが語りたくなかろうがそれは別問題であって、
聖霊のバプテスマが初代教会の通りでなければならない。異言の徴が必ず伴う者であると固く信じるに至らねばならない。。




第5章 異言がかくれある聖言

ペンテコステの日の聖霊のバプテスマの徴は必ず異言を言うことであるならば如何なる方面から聖書を研究しても、
受霊の徴は異言でなければならないはずと考えられねばならない。
しかして聖言を研究すればするほど、その結果はこの確信を深めていくのである。
いくら聖言を切って割って批評してみても、その教えるところを正直に学ぶならば、
どうしてもこの原理を離れることができないのである。

この章に於ては一面異言と関係のないように思われる聖言の研究によって、
異言の隠れていることを鮮明にしたい。先ず聖書の中から3方面に渉って考察してみよう。
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イ、ペンテコステに至るまでの聖言の中から
ロ、使徒行伝中の聖言から
ハ、書簡中の聖言から
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イ、ペンテコステに至るまでの聖言の中からただ2つの所から研究したい。

 1、2人の証明者(ヨハネ伝15章26、7節)
 2、信者の信仰に伴う徴(マルコ伝16章17、8節)

1、2人の証明者
「わたしは父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、
その御霊が私についてあかしします。 あなたがたもあかしするのです。
初めからわたしといっしょにいたからです。」

とイエスは賜わんと約し給える聖霊について斯く仰せ給うた。
確かに預言の籠った聖言である。それはペンテコステの日の聖霊降臨の時には、
聖霊がキリストについて証しするのみならず、
信者も(「も」の字に含まれる真意に御注意願いたい)証しをするというのであるが、
「も」の言葉の力は聖霊が降り給うときには、証しをするものが2人であるというのにある。

1つの肉体をもって如何にしてキリストの証しをなし得ようか。
それは聖霊にてバプテスマされるものが異言を語らしめられることによって、
すなわち聖霊ご自身が人の舌を用いてイエスの証しをなさしめ、また受霊した者は己の国語をもってこの大いなる恵みを証しすることに於てのみ聖書の2人の証明者が可能になるのである。

こう論ずれば、ある人は「手前味噌の勝手な言い分」と貶すかも知れない。
併し25年ほど以前から起ったペンテコステの働きを深く探り、多くの目撃により、
2人の証明とは「これ」であると確実に断言しうるに至ったと研究者は公言しているが、その通りである。
自分が体験し得るに至ったと研究者は公言しているが、その通りである。
自分が体験し、多くの兄弟姉妹の受霊を目撃するならば、斯く今も主は働き給うのであると断言し得るに至るのである。

或時あるユダヤ人のみの教会に若い婦人が出席した。
そして彼女は非常に満たされて異言を語った。
因よりも何語をもって語ったかは本人は知らなかったけれども、
それは鮮やかなへブル語をもってキリストの証しをしたのであった。

聖霊はユダヤ人の心を知り給うてキリストの証しを娘の唇を通してなさしめて御栄光を顕さしめんとし給うたのであった。
果たして後日ユダヤ人達は救われてキリストの御名を呼ぶに至ったのである。
それは後のことであるが、聖霊が娘の唇をもって証し給うたが、
娘もまたその大いなる恵みの体験を己が国語英語をもって主の証しをせずにいられないのである。
そこで汝らも証しするなりと仰せ給うた御言葉が活き、異言と両々相俟て、2人の証明者が聖書通りになるのである。

「あなたがたもあかしするのです」との言葉を誰でも信者たちが自分の唇をもって証しすることと認めるならば、
聖霊の証しも皆に信者の唇を通して語り給うに違いないと認めねばなるまい。
故に異言を拒否しては、聖霊の証しは何時語り何によるかは恐らく疑間の事であろう。
故にヨハネ伝15章26、7節には異言とは記されてなくてもそれには必ず使徒行伝2章4節の預言があるから賛美したい。

2、信者の信仰に伴う徴
 マルコ伝の終わりの章の16、7、8節にイエスは福音を信ずる者の徴は何々であるかを知らせ給うたが、
 詳しく分解するならば左のようである。
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 1、キリストの名により悪鬼を追い出し
 2、新しき異邦の言葉を語り#
 3、蛇を握るとも害を受けず
 4、毒を飲むとも害を受けず
 5、病人に按手せば癒えん
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異言は聖霊のバプテスマの初めの徴であると固く信じ得るために
多くの人々が反対に引照されるマルコ伝16章の主を信ずる者の信仰に伴うところの5つの徴について考えてみたい。
「イエスは信仰の徴として5つの事を仰せになって居給うに、
ただ1つのみ、即ち異言にのみ力を入れられるるのは具合が悪かろう」と言われる人々もある。
この論は一寸聞きには道理らしく思われるけれども、静かに考えるならばこの5つの徴の中、神と人の霊魂との間に直接に働いて、
他の材料を要しないところのものは異邦の言葉を語ること1つである。

他の4点は皆それぞれ他の材料を必要とし、神と個人のみの間に顕われることのできないものである。
例えば山奥の一軒家住宅、海洋の孤島の一人住みといった場合に、これらの徴は絶対に顕われることを見られない。
けれども異言のみは如何なる所、如何なる時、孤独の場合にも顕われることの出来る徴であるから賛美である。
今も少し詳しくこの5校について研究を試みたい。



 1、悪鬼を追い出す事

もし聖霊を受けるために悪鬼を追い出す「しるし」が必要であるとするならば、
その希望者はぜひ悪鬼に憑かれた人を探さねばならない。
勿論そんな人は何処にもあろうが、いない所も無いとは言えない。
そうした土地にいる人はその「しるし」によるところの確信をいかにしても得る事ができないわけである。

 3、蛇を握るとも害を受けず

前項と同一の原理で、毒蛇のいる所もいない土地もある。蛇をわざわざ握って噛まれてみて、
その徴によって聖霊のバプテスマを証しするものだとするならば、受霊者は余り多くないかもしれない。

 4、毒を飲むとも害を受けず

聖霊を受けているか否かの確信を得るために毒を飲んでみよと言う者は恐らくないであろう。
勿論そうした事をするのはよろしくない。
けれども反対に過って毒を飲んだ時に聖霊を受けた者は害を受けないのだから感謝したいが、
受霊の証拠にはならない。

 5、病人を癒す事

これも同じ原理である。病人の無い所が無くはない。
そしてまた神の御意が聖霊を受けたかどうかと斯ることをして試すことにはないに決まっている。
ゆえに、この項も徴として考えることはできない。

2、異言の言葉を語る#

終わりに異言の徴を考えてみよう。こればかりは前4項の如く、
自分以外に場所、人、時の材料を一寸も必要としない。
異言はまったく悔い改めて福音を信じ、本当に砕かれた霊魂をもつ信者の心と神との関係であって、
誠に独立の徴であるから幸いである。

たとえ絶海の孤島に一人住む漂流者でも聖霊により異言を語らしめられる事ができるから感謝である。
難破船の遭難者が海中の藻屑と葬り去られんとするいまはの際にも誠の悔い改めをして
神を信じれば異言の徴の伴うことは可能である。

飛行機に故障が突発して搭乗者が墜落惨死の瞬間でも主を呼び求めるならば異言を語りつつ
聖霊のバプテスマを受けて召されることもできるから感謝したい。
故に聖主は彼を信じる者に5つの徴が伴うとおっしゃられたけれども、
聖霊のバプテスマの徴は異言より外には無い。他は伝道のために、御栄えのために「いざ」という場合の時等の
特別に顕わしてくださる徴と信じるものである。

ロ、使徒行伝中の聖言から

これには、かなり多く記載されているが、ただ2つを引照して説明する。
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1「これは、予言者ヨエルによって語られたことです。」(使徒行伝2章16節)

2「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、
 今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(使徒行伝2章33節)
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1、ヨエルの預言(2章16節)

五旬節の朝まだき120人は満たされて非常なものであった。
傍観していたある者どもは「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言って嘲笑した。
そこでペテロは「今は朝の9時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
これは予言者ヨエルによって語られた事です。」

すなわち「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。・・・」
とあると、ペテロが明確に断言している。

「ヨエルによって語られた事」とはペンテコステの日の出来事の何を指しているのであるか考えていただきたい。
ならば直ちに「異言」を持って満たされている有り様を指しているのであることに
毛頭論の無いことが知られるであろう。実に「これは」は異言の徴をもって満たされていることを指し、
「ヨエルの語られた事」とはわたしの霊をすべての人に注ぐ云々の成就であると以下の節で説明している。
「故に異言の徴が伴わなければヨエルの予言は己に成就したと言われない。」

ハレルヤ。
異言のしるしが無ければ、ペンテコステの聖霊のばぷてすまではない。
これを拒む者はペンテコステに従うことはできない。

2、見聞きする(2章33節)

前項の説明で十分であると思うが、この点でも聊か考えてみたい。「見聞きする」の言葉を通して
使徒行伝2章4節は受霊の徴であると断言できる。
この節の下半句には「今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
とあるが神が聖霊を降ろし給えば、その降臨は確実に「見聞き」し得るものに違いないことは明らかである。

聞くこと因より異言の外にはない。風のごとき響きがあるにはあったが2章4節の時にのみに止まる。
他において聞くものは、ただ異言のみであった。見ることとは何を指すか。
「甘いぶどう酒に酔っているのだ」のように見られた聖霊の力に酔わされた人々の状態である。


爰で異言を信じない教会の人々に借問したい。
もし貴下に「聖霊を受けられましたか」と聞くならば「然り」とご明答なさるかも知れない。
けれども注意していただきたいことがある。貴下が聖霊を受けられた時に、貴下を通して何を見、
何を聞いたかと思い巡らせてみられるならば、恐らくペテロの言ったごとき
「今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」ということはできぬであろうと信ずる。

其れに反してペンテコステの集会で聖霊を受けた者に同様の質問をするならば、
彼らは鮮やかに「見聞きする」事のできた体験を一人残らず確信を持って証明できるのである。
すなわち明らかにヨエルの予言が、自分にも神は成就せしめたもうたと言い得るのである。
書簡中の聖言から書簡中には特にこの点について隠れてある個所を非常に多く見るのであるが、3、4だけ摘出して論議してみたい。
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1、またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、
またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。(エペソ1章13節)

2、ですから私は、あなたがたに次の事を教えておきます。神の御霊によって語るものはだれも「
イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です。」
と言うことはできません。(第1コリント12章3節)

3、私はあなあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが・・・(第1コリント14章5節)

4、そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、
私たちの心に遣わしてくださいました。(ガラテヤ4章6節)
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1、またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、
またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
ここに明言されていることは「真理の言葉を信じて約束の聖霊をもって証印を押されました。」
であるが、聖霊の印、ハンコとは一体何を言うのであろうか。
それは繰り返して使徒行伝中に記録されている異言ではないか。

人が小切手を持って銀行から金を取ろうと思っても振出し人のハンコがなければ何の価値もない。
聖霊の印も同様である。使徒行伝と同じ「印」すなわち異言の徴がなければ聖霊のバプテスマの経験が
あると発表することができない。言わばそれは無効の手形と同然だからである。

旧約の創世記を繙ならば、神は漂浪の子カインを恵みの国より逐出さんとし給う時、
彼の額に印をなし給うた事を知るであろう。また大艱難の時代に偽キリストがその己に属するものに印することが
黙示録に載っている悪魔が己の手のものに捺印することがあれば、聖霊もまたご自身の属に印することは
あり得ることであって、しかもその印はただ単に「受けた確信」の如きものに止まるのではなく、
確実に肉の体に表れるべきところの印であるに違いないのである。

2、ですから私は、あなたがたに次の事を教えておきます。神の御霊によって語るものはだれも
「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です。」
と言うことはできません。

異言の問題を研究するとすべての異言は正確な異言でなければならないと認めねばならぬ。
他の偶像教にも異言(純然たる異邦の言葉だかどうかは不明)を語るものがあり、
また信者だと言うものにも悪魔の能力によって異言を語らされることもある。

それだからと言って、または間違った異言を聞いたことがあったからとの理由で、
異言の全てが斯る類のものであると断ずるのは早計であり、極端な邪説であると信じる。
ある人は「あやまてる異言」を語った者があったために、異言を信じるものは西洋キツネ付きであると言われたことがあった。

しかし我らの信じる異言は使徒行伝2章4節に従ったところの、聖霊に言わしむるままの異言である。
でこの節に於いてパウロは誤った異言のある所から、愛するその教会に対し書簡を認めて真偽の異言の区別を教えているのである。

すなわち聖霊によって語るものは、決してキリストを咀わるべきものであると言わないという
説明の裏には明らかにその理由が見えている。
それはパウロが第1コリント12章を書きながら絶対に異言の事は考えていなかったとすれば、
この3節を認める必要がなかったから、彼の論ずるところは異言を通してキリストは咀われるものだと言うならば、
それは正確でない聖霊の語らしむるものでないというのである。
異言は語るもの自身がその何語たるか、何を語るものであるかを知って語るならば、
それは最早異言ではない。異言は意識が明瞭であって、その語るところが語る者に分からないところにその特長があるのである。
異言を論ずる者は、この理を辨ておらねばその資格はないと言えよう。

異言を語ると一概に言うけれども3つの種類がある。一つは教育によって外国語を話すことで、
一つは悪鬼に語らしめられて、もう一つは聖霊ご自身によって語らしめられるものとである。
そのうち聖霊のバプテスマの徴となるものは、因より教育にも悪鬼にもよらない。
使徒行伝2章4節通り聖霊の言わしむるままに語るところの異言である。

3、私はあなあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが・・・
パウロがこの勧めを書いたのはコリントの人々が聖霊によって異言を語った経験の上にたっているので
斯く言っているに違いない。もし凡ての満たされた者たちが異言を語らないとすれば、
この第1コリント14章5節を書く理由と権利を認めることはできない。

彼が明らかに「あなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが」と言っているのは、
御霊に満たされる者に来るところの喜ばしき現象であって、これは神の御意によるところのものであると知っているからである。
ゆえに異言なるものが聖霊のバプテスマによってくる結果のものでなかったならば、
彼は己が異言を語ることを感謝したり、人々がみな異言を言うことを望むなどと言うはずがないし、
彼が人々のためにかくも欲する所以のものは、彼は受霊における明確な唯一のしるしであり、
人々がみな聖霊を受けるべきものであるとの固き信念があったからに違いない。

そこで初めて聖霊を与え給うことが神の御意であり、皆が異言を語ることを欲するという彼の思想と合致してくるのである。
そして事実が聖霊に満たされるならばパウロの望み通り、今日においても皆、異言を語るからハレルヤであり、アーメンである。

4、そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、
私たちの心に遣わしてくださいました。ここには神は子たるの証しとして我らの心に御霊を遣わして御霊が
「アバ父」と我らに呼ばしめるといってある。嬰児が世に生まれ出た瞬間、必ず「オギャ」と勇ましい産声を上げるものである。

もしその声を家人が聞かなかったならば唖か不具者かと心配する。普通でないことがあるからである。
聖霊においてもまた然り、バプテスマされて肉欲に咀われ、この世に属した「肉」という嬰が、
潔き御霊の国、父の御神の国に誕生す産声がすなわち異言なのである。誠に祝福された、喜ばしい叫び声ではないか。

故に、この祝されるべき聖霊の産声に反対される人は嬰児の産声を否定して、
唖か、不具者を喜ぶような気の躅れた人に例えられると思う。
けれども事実に於いて異言は誰がなんというとも神の国に生まれ出る。
聖主を賛美する喜びの声であるから感謝である。このガラテヤ4章6節は明言はなくとも異言の意味が十分に蔵されてあるから嬉しい。



・弟6章 異言異議論者に対する論解

ペンテコステの原理、即ち聖霊のバプテスマの証拠は「聖霊の言われるま々に語る異言である」に対して数々の異論がある。
私は16年ほど前に聖書を基礎として「異言の徴」は確かに全く聖書的な真理であると初めて信ずるに至ったが、
これに対する幾多の反対論、不要論等の異論のあることも知った。

そこで祈りをもって聖書に照らして徹底的に研究して見た結果「如何に良さそうに見える妙説であっても、
異言を否定するならば、聖霊のバプテスマは決して得られるものではない」という動かぬ結論を得たのである。
この研究が同じ疑惑のなかにある人々のまちがいを訂すことが出来ればと、思い浮かぶ、4の異論に就いて信ずるところを以って批判してみることにした。

(1)「みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか・みなが解き明かしをするでしょうか。」

第1コリント12章30節

聖書中この章節は一番異言反対論者に印照される句である。
「この章節によっても聖霊にみたされる者はみな異言を語るものとはきまっていない」と。
しかしこれは正直な思いをもって、静かに聖書を研究されるならば、異言のの「しるし」に就いて、
何等の関係もないことを理解されると思う。

何故ならばパウロがコリント第一の12章に於いておしえんとすることは聖霊の賜物に就いてだからです。
その1節には「兄弟たち。
聖霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知って頂きたいのです。」
と言い、また8節から10節に就いてもそのことが明瞭である。

聖霊の賜物とは、

        (1)知恵の言
        (2)知識の言 
        (3)信仰
        (4)病を癒す
        (5)異能ある業
        (6)預言
        (7)霊を見分ける
        (8)異言を語る
        (9)異言を解く能力、

の九つがあるけれども私の主張するところは、「賜物としての異言でなく、ペンテコステの聖霊のバプテスマの、
しるしとして語られる異言である。」でおうしても賜物としてのものと徴としての異言を区別せねばならない。
賜物として与えられた異言は何時でも思いのままに語ることが出来る。
けれども「しるし」としての異言は受霊の時、一回だけに止まる。だからその後賜物を受けないものは十年間たっても異言を語ることが出来ない。
併し「しるし」ですから聖霊のバプテスマならば生まれつき口の聞けない人でも鮮やかに異言を語れるもので、その実例がある。

この主張に反対する人は何の区別なしに異言といえば賜物もしるしもなく一つのものだと考え、そうして論じている。
だからそれらの人のはこの真理が判らなくなってしまうのです。

信仰の賜物に就いても同理で、我々が信仰によって救われるという信仰は賜物としての信仰ではない。
私は信仰によって、永生の保証をうけているが、英国の有名なジョージ・ミューラーの如き信仰の賜物はあたえられていない。
癒しの方面を考えて見ても同様である。

私が他人に依頼されて病人に安手して祈ったに癒された例が沢山ある。
けれども癒しの賜物を与えられて居る人は如何なる病人に向かっても、盲目、耳の聞こえない人、口の聞けない人などどんどん癒す能力がある。
私のは癒しの恵みであり、その人のは癒しの賜物である。
その様に知恵、知識、異力或る業など九つの賜物もみな恵みのものと二方面に別れているのである。
異言に於いてもまた同じで全部の受霊者には異言の賜物はないが、受霊者全ては異言の「しるし」をもたねばならないのである。

ペンテコステの120人が悉く異言の賜物は与えられなかったろうが、
「しるし」としての異言は一度は聖霊の語らせるままに誰でも語った経験を持っていたのである。
今の時代に於いても真理は変わらない。

霊を受けたものは「異言の賜物」はなくとも「異言の徴」はなければならない

(2)「異言を語る者の中に、潔められないような行為と生涯を持つものの居ることに就いて。」 
真の福音は只一つであって動かすことの出来ないものである。併しこのイエスの福音を信ずる者にも偽善者もいる。

そしてその人を俎上にして論ずる事により、福音の真理を枉げてしまうことは出来る。
例えば「キリスト信者にも偽善者や悪い人間が沢山いるじゃないか。そんなものなら信ずる価値などないだろう」
と未信者中の或る人達が救いに入らぬ理由として言うようなものである。
けれどもそんなことはいくら言ってみてもイエスの福音は唯一で遇って事実に於いてはその真理は少しも揺らぐものでない。
それと同じで異言を語ったものに堕落者があったとしても「受霊のしるし」と
しての異言の真理が動くものではなく、異言が悪いものとなるのでもない。    
              
(3)「異言を語らずとも神に多く用いられた人物に就いて」

神は異言のことを解き明かしせずまた語らなかった人物でも今昔の別なく深く用いてくださることは認める。
しかし多く用いられたいという事が受霊の証拠、即ちしるしとはならないし、私が証めた事によって
異言の真理なることを否定するための力は少しもない。何故なら再臨を信じない人の名かにも神に用いられた人物が沢山居るが、
それだからといって再臨が無いのではないし、救世軍創立者のウイリヤム・ブースは洗礼を無くしてしまって、
キリストを伝えたが、何人も彼が神に用いられた人物であることは信じている。けれども洗礼はキリストの弟子隣、
神の子となる者には欠くことの出来ないものであると同じであるからです。
故に異言異論者中に用いられる牧師、教師、伝道者がいくらあったところで問題ではなく、
その真理がなくなるのでもない・。問題は聖書派生書を研究して満たされるものが異言を語り且つそれが主の御意であるか、
否かである。           
          
(4)「聖書中に厳格に異言を語れとの命令なき事に就いて」
この点にも異義をもたない。しかし聖書には聖霊のバプテスマに対する厳格な命令が載っていない。
「聖霊を受けよ。聖霊の降るまで待て」とはあるけれども、聖霊はどうしても受けねばならないという命令はないが、
兎に角聖霊をくだしたもう約束があり、約束をうけたものはみな異言の経験をしたことが記され、
更に新約聖書記者中誰も異言を語らなかった人はないのである。これは実に貴い経験ではないか。


弟7章 私個人の証詞

和椰子は18年前(1913年)に商売を目的として日本に来ました。
その時には新生の経験もなく、潔めも、満たされるという事もしらない、
冷たい霊魂をもっていたのでした。

基督教の信者だとは発表していても、殆ど信仰はなかった。どういうわけか、
聖書がそのまま神の聖言であるなどと信じられなかった。
日本に来た当座、寄宿していた家が宣教師だった関係で、全聖書を一回読んで見ようと思い立って、
読み始めたことから明らかに自分が罪人であり、どうしても新生しなければならない必要を悟らされ、
それから三日後に疑いもなく罪から解きはなたれた救いの確信を与えられ早速神の御前に於いてこの身に
其の後如何なる損害を得る場合があっても、その全生涯と行為とを聖書に合わせて歩むことを誓願したのであった。

期がたつにつれて、救われた喜び、潔めの経験があっても何となく打ちからの能力の乏しさと、
救霊に対する熱情に欠けていることなどが感ぜられて、霊のもの足りなさと渇きを覚えて
もっともっと恵まれたくて仕方がなかった。

それでその頃は純福音と言われる各派の大阪、神戸、軽井沢、有馬などの聖会、
修養会には必ず出席して、聖霊のバプテスマに対する多くの説教を聞いたのであった。
教えられた通りの信仰によってその経験を受けようとし、
また確かに受けたと思って証詞などをしたことも数々あった。

けれども五ヶ月たち、半年暮らすうち何となく足りないところがあるように思われて来た。
それで次の正解などに出席して有名な別の人の話を聞いてみると「ハテ?本当に受けていたかしら」という疑惑が出て、
もう一度色々と反省してみて、些細な点まで悔い改めてから信仰をもって祈って与えられ、
「今度こそは本当に受けた」という様な事を繰り返していたのであった。

そんな事のためにやがては、失望してしまったのであったが、
その内、特別に使徒行伝を詳しく調べた事によって、神は今も昔と変わらぬペンテコステの日の御霊を自分の上に
与え給うことを悟って、使徒行伝的聖霊に非常に飢え渇いてきて求めだしたのでした。

その頃、神が各国に新しいことを為して居給う事を耳にした。それは英米、カナダ、ヨーロッパ、
中華人民共和国、インドにもペンテコステの働きが勃興して異言のしるしをもって聖霊のバプテスマを
与えていたもうことであった。これこそ自分の求めていた必要のものであると知り、ある時は断食し、
ある時は夜を徹して熱心に祈りもとめて、神の憐れみを求めたのであった。
幸いに或夜明らかに我が内に降臨し給うて、2時間ばかり異邦言を三つほど語らせてくださったのであった。
その時から凡てのものが改まってきた。

今更の如く聖書が新しく見られ益々深くキリストの聖霊が迫り、
また彼を愛する思いが日に日に加えられて、なおなお伝道に対する熱情が湧き上がって来たのである。
約10余年経ったが、その間日本の東西南北にも人々が同じ経験を与えられ、さらに聖霊が働き、
この恵みが益々広く深くなって行きつつあるから賛美する。

弟8章 終わりの勧め

愛する兄弟姉妹よ。
この異言の論説を諸君は無用の長物と考えられるかも知れないけれども、事実は実に必要なものである。

異邦人コルネリオの家に於いて、聖霊が降臨し給うたことを如何にして知る事が出来たか。
割礼あるユダヤ人は、異邦人などは主イエスの福音を受けることが出来ないと思っていた。
けれども救われ、且つ満たされた。その証拠は彼等が経験したものと同じ異言を聞いた為に、
異邦人にも神は聖霊を与え給うものだと知ったのである。

今日に於いても威厳のしるしなくして如何にして
「ペンテコステの日と同じ御霊を受けたと確実な証をもつことが出来ようか・再臨は近い。マタイ伝25章に録されたことを通して、
充分に油を調えていたもののみが携えあげられることを知る。

燈火という聖書をもって新郎を迎えに行っても、油が乏しかったら携えあげられることがなくて「五人の愚かな乙女」
と同じ嘆きを味わわねばならない。誠に遺憾の極みだと思う。

兄弟姉妹よ。豊かな聖霊の油を異言のしるしと共に恩恵と憐憫の主より戴こうではないか。



 

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