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(2018-07-01の週報より)

「パウロの回心」

  

 

パウロの回心                               

        神は、敵対する者をも造り変え、ご自身の器としてお用になる。

 聖句 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、

            神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5章8節)

一、エルサレム教会に対する迫害(使徒8章1−3節)

 前にステパノの殉教のところでその死の現場にいたサウロという青年は、ステパノには殺されるべき正当な理由があると考えました。サウロは律法を守ることに熱心なパリサイ人だったので十字架刑で死んだナザレ人イエスを救い主だと伝えているステパノに激しい憤りを感じていたのです。ですからサウロは、ステパノの死後も、イエスの弟子たちに対する迫害の手を緩めませんでした。イエスを神と信じる者を『異端者』として次々に牢に入れたり、手荒なことを続けました。そうすることが神に喜ばれると信じて疑わなかったのです。迫害された信者たちは周囲の町々へと散らされていきました。

二、サウロの回心(9章1−19節)

 イエスの弟子たちに対するサウロの敵意と憎悪は、ますます大きくなっていきました。散らされた信者た

ちを捕らえ、牢に入れてもよいという許可状を大祭司から得て、サウロはダマスコの向かいました。ダマスコを間近にしていたサウロに、主イエスが現れたのです。イエスは、まばゆいほどの光をサウロにの上に照らすことによって、そして『わたしは、あなたたが迫害しているイエスである』という声によって、ご自分を現されました。サウロはこの現象から、イエスが神に遣わされた救い主であったと悟ったに違いありません。自分がよかれと思ってしてきた迫害が、実はそのお方に向けられていたと知って、相当ショックを受けたことでしょう。しかし主は、そんな彼に、これからなすべきことを教えてくださいました。

 サウロの同行者たちには、声は聞こえても、何が何やらわかりませんでした。主イエスが、サウロに個人的にお会いになったからです。目が見えなくなったサウロは、人々に手を引かれてダマスコの町に入って行きました。

 主はサウロを正しく導くために、アナニヤという弟子を用いられました。サウロに会いにいくよう命じられたアナニヤは、サウロの評判を聞いていたので、驚き、戸惑いました。無理もありません。そこで主は、ご自分がサウロのために用意しているご計画を、アナニヤに話してくださいました。アナニヤは、主のことばに従ってサウロのところに向かい、彼の上に手を置いて『兄弟サウロ』と呼びました。するとサウロは再び目が見えるようになり罪を悔い改めてバプテスマを受けました。そしてただちに、イエスは神の子であると宣べ伝え始めたのです。

 パウロは、罪に生活から義の生活へ改心したわけではない、また誤った神から真の神の回心させられたのでもありません。復活のキリストを知り、キリストによって正しく神を拝することを教えられ、キリスト教徒を迫害することからキリスト教徒と共に苦しむ者となる回心を経験したのです。ダマスコに住む無名の聖徒アナニヤが神から遣わされ『しなければならないこと』(6節)を告げるとパウロは立ち上がって『罪を赦していただくため』にイエス・キリストの名によってバプテスマを受けたのです。そこには、完全に砕かれ、へりくだるパウロの姿がありました。。

三、パウロの宣教(9章20−22節)

 パウロは即座に宣教を開始します。一変して、大胆に、イエスが神であることを宣言します。パウロの豹変に、ユダヤ人がうろたえたのも無理ありません。彼らはパウロを殺そうとします。だがパウロの対するこのような殺意や敵対はまだ始まったばかりで、彼はキリストの名のために生涯にわたって苦しむ歩みに入っていくのです(9章16、Ⅱコリント11章23−28、)私たちも、真にキリストの側に立って生きようとするなら、そこに戦いのあることを覚悟しなければなりません。

(祈りましょう)

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