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(2017-11-05の週報より)

「わたしは世の光」

  

主題  わたしは世の光である   ヨハネ9章1−12節 8章12節

 イエスは繰り返し『わたしは世の光です』と言われました。(8章12、9章5、)それは、イエスご自身が神からの光であり、闇であるこの世を照らしているという宣言です。そのことを最もよく表している出来事が、生まれつき目のみえない者のいやしでした。


一、わたしは神の働きをする。(ヨハネ9章1−4節)
 生まれつきの盲人を見て、弟子たちは『彼が盲目についたのは、だれが罪を犯したからですか』と質問しました。病気や不幸は罪の結果であるという思想は、ユダヤ教にも一般の世間にもありました。それに対し
イエスは答えられました。『この人が罪を犯したのでもなく両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』救いようのない因果報応思想から、希望に満ちた神の働きに目を向けさせるのです。
 しかも、イエスは『わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません』と言われているように、与えられている機会に積極的に神の働きをすることを強調しておられます。イエスは、
神の働きを行うことによって、人間の絶望を神の希望に変えられるのです。


二、わたしは世の光である。(5節)
 イエスが、神の働きを『昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜がきます。』と
言われたことには深い意味があります。与えられた機会を積極的に用いて働くということだけではなく、やがて十字架の死によってこの世から取り去れれるという危機意識がありました。この世にいるうちに、この世にあって、この世のために働くのである、と言われた。人間の苦悩を神の栄光に変えようというのです。
 それが『わたしが世にいる間、わたしは世の光です』という。象徴的な表現によって強調される。人間の世界において、イエスは苦難と苦悩によって闇に覆われています。その世界において、イエスは神の力によって奇跡的な働きをすることによって、世の光となられました。ここでは、その教えより、むしろ働きによって、世の光となられたのです。


三、わたしは見えるようにする。(6−12節)
 イエスは生まれつきの盲人に、つばきで泥をこねて目にぬり『行って、シロアムの池で洗いなさい』といわれました。言われたように、行って洗うと見えるようになった。神の力によって、奇跡的にいやされたのです。そのことは、彼の周辺に大きな波紋を生じた。そして、彼はイエスが行われた大きな働きを証しする、良い機会に恵まれたのです。『それで、行って洗うと、見えるようになりました』彼は見えるようになったのですが、イエスが見えるようにされたのです。
 イエスは彼を、肉体的にだけではなく、霊的にも見えるようにされたのです。彼はやがてイエスを信じ(38節)。霊の目も開かれたのです。二重に見えるようになったのです。逆にイエスが『目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです』と言われているように、見えることを誇っている者は 見えなくなってしまう。そこに、神の働きとともに、神の裁きがあるのです。
四、ヨハネ8章12b
 イエスは『世の光』という表現をこのんで用いられたが(マタイ5章14)ここでは特に、ご自分について言われています。(9章5)、このような表現には、神は光で、この世界は闇であるという思想があります。
イエスは、この世に遣わされた神の子である。そのゆえに、彼は世の光である。
 そして、人々に従うようにと呼びかけて、このように言われたのです。イエスを信じて従う者は、この世にあってけっして闇の中を歩むことはない。罪と欲望の中に生きることはない。むしろ、いのちの光をもつ、
と言われる。『いのちの光』も高度に象徴的な表現であり、ともに神の御本質に属するものであり、神からのみ与えられる者です。イエスがそれらを約束されたのは、神からのメシやで(救い主)であるからです。私たちも、主イエスを信じて従い、いのちの光に生きましょう。
   (祈りましょう)

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