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(2017-01-20の週報より)

「主イエスに繋がっている。」

  

一、ぶどうの木とその枝(ヨハネ15章1−8節)

 当時の人々が待望するメシヤ(救い主)は、ローマの支配からイスラエルの民を開放して,イスラエル王国を再建する政治的な改革者でした。けれども,これ迄聖書が語り、また主がご自身が示されるメシヤは、それとはまったく違うものでした。そうした背景の中で,主ご自分のことをいろいろなたとえを用いて説明しておられました。

 ここでは,主は『わたしはまことのぶどうの木であり、わたしに父は農夫です』と言われました。ご自分を『ぶどうの木』として示されています。この『ぶどうに木』はまことの『ぶどうの木』であると言います。偽物のぶどうの木が存在することが意識されています。イスラエルの人々は謝った教えを主張するユダヤ人指導者の存在に迷わされていました。だから実を結ぶことができませんでした。

 さらに『わたしの枝で実を結ばないものは、父がそれを取り除き,実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます』と続けられます。私たちは『枝』であって、木につながって、実を結ぶようにということです。そうでなければ、農夫である神がその枝を取り除き、実を結ぶものは、さらに訓練の刈り込みをされるということです。

 私たちが主にとどまり、また主が私たちの内に住んでくださるなら、実を結ぶと言われています。主を離れては何も出来ないとも語られていました。それは,主の語られたみことばを信じて、主の弟子として生きる事を意味しています。

二、主イエスの愛の中にとどまる(9−15節)

 主にとどまるようにと語られた主は更に具体的に『わたしの愛の中にとどまりなさい』と言われます。クリスチャンが神を信じると言うことは、単に神が存在していることを信じるということではありません。悪魔も、神のことを私たち以上に知っているわけですから、そうであれば悪魔も神を信じているということになってしまいます。

 主が教えておられる信仰とは、主に信頼し、主の語られた戒めに従おうとすることです・そして、主の戒めとは、主が私たちを愛して下さったように、私たちも『互いに愛し合う』ことです。

 主イエスは、私たちを愛するが故に、私たちの罪の身代わりちして、十字架にかけられ、神にさばかれましたその愛を受けた私たちは、私たちの隣人を愛するようになります。これが主の愛にとどまると言うことです。人を会いそうとしないなら,その人は主の愛にとどまってはいないということです。.

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