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(2016-07-02の週報より)

「神に選ばれた人ダビデ」

  

 人はうわべを見るが、主は心を見る。

    (Ⅰサムエル16章7節)


一、エッサイのもとに遣わされるサムエル(1サムエル16章1−5節)
 いつまでも心が晴れないサムエルに、神は『エッサイの息子に油を注ぐためにエルサレムに行け』とお命じになりました。神に退けられたとはいえ、サウルはなお王として権力の座にとどまっています。サムエルが住むラマからベツレヘムに行くには、サウルの城塞のあるギブアを通過しなければなりなせん。通常の巡回地に含まれないベツレヘムに行くことに、サウルが疑いをもつのではないか、恐れるサムエルの、神は『主に生け贄をささげる』という名目をつくり、そこにエッサイをまねくように提案なさいました。「あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ』。明確な意図と約束を与えられたサムエルに、もはや躊躇する余地はありません。
 ベツレヘムの長老たちが恐れつつサムエルを迎えたのは、預言者の突然の訪問に対する戸惑いか、或いはサウルとの不和を知っていて、被害が及ぶことを案じていたからかも知れません。主の霊がサウルを離れ、サウルがすでに『主からのわざわいの霊』の影響を受けていたとすれば、なおさらです。サムエルは、いけにえをささげる儀式に身をきよめて参加するように長老たちに告げ、自らエッサイと息子たちの聖別を行いました。


二、油を注がれるダビデ(6ー13節)
 長男のエリアブを見た時、サムエルは、彼こそ神に選ばれた人だと思ったが『容貌や、背に高さを見てはならない』と言われます。なぜか『人はうわべを見るが、主は心を見る』からです。『心を見る』とは神ご自身との関係をご覧になること、サムエルの前に立ったエッサイの息子たちは、容貌も体格も、恐らく能力も優れた若者だったに違いありません。ところが、神の選びの基準にかなう者はいませんでした。遠来の預言者から招かれるという特別な場面にダビデが同席しなかったのは、ただ末っ子だっただけではなく、父親から余り評価されていなかったからかも知れません。彼がゴリヤテと戦う直前のエリヤブのことば (17章28節) からも、家庭内でのダビデの立場がうかがわれます。しかし神は、ダビデに油を注ぐようにお命じになりました。神は、この世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者をお選びになる(1コリント1章27ー28節 参照)。ダビデは父が所有するわずかな羊(17章28節)を守る少年にすぎなかったが、心はしっかり神に結びつき、神と交わる喜びを知っていたのではないでしょうか。詩篇の150篇中、多くがダビデの作と言われ、それらはダビデの瞑想の深さを物語っています。
 サムエルが油を注ぐと『主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った』この油注ぎは家族だけの前で行われ、その意味を、サムエルは本人にさえ告げなかったらしい。ダビデが、公に任職の油を注がれるのは、これよりずっと後のことです (ユダの王としてⅡサムエル2章4節、さらにイスラエル全家の王として同5章3節)


三、サウル王に仕えるダビデ(14−23節)
 一方、主の霊が去り、心の平安を失ったサウルは、不安におびえるようになりました。家来たちは、美しい立琴の音色で王の心を落ち着かせることができるのではないかと提案しました。そして、なんと琴の名手であったダビデを連れてきたのです。神の不思議な導きによって、ダビデはサウル王に仕える者となりました。ダビデはサウルのために心を込めて立琴を弾き、それを聞くたびにサウルは元気を回復しました。主はサウルを王としては退けましたが、ダビデを用いて慰めを与えてくださいました。 人はうわべを見るが、主は心を見る。(Ⅰサムエル16章7節)

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