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(2016-05-01の週報より)

「一番偉い弟子」

  

『あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(マタイ20章26節)

     
一、この世の原則(マタイ20章20、21、25節)
 エルサレムに行く途中で、イエスは、弟子たちに、自分が十字架にかかること、そして復活することを話されました。間もなく、十字架の死に直面されるイエス。しかし、その深刻な気持ちを思いやることなく、ゼベタイの子たちの母、つまりヤコブとヨハネの母が自分息子たちを御国に行った時によい地位につけてくださいと願いでました。ヨハネたちの家は業員もいる裕福な漁師家庭であったらしい(マルコ1章20節)。その家の跡継ぎが名も知れない伝道者の弟子になったことで母親としては何か満たされないものがあったにでしょう。どんな小さな組織でもその中で出世してほしいと願うのは変わらぬ親心です。親だけではありません。この世の原則は常に『上に立て!』リーダーになれである(25節)。『この世は適者生存・弱肉強食』と言われ生まれた時から人生ゲームの競争がスタートし、一歩でも人に先んじ、人より多く稼ぎ、他の人より上に立ち、人より楽な暮らしをし、偉くなりたいと願い続ける。そのたに、多少の悪はかまわない(必要悪)とされる『力こそ正義』なのです。
良心の声もないではないが、しばしば力と権力の論理の前にかき消されてしまいます。


二、わたしの杯(20章22−24、28節)
 イエスは、弟子は『わたしの杯』を飲むと語られます。
 神の論理はこの世の論理とは逆です。マリヤの賛歌 (ルカ1章)で歌われ、イエスの山上の説教に引き継がれた『高い者が低められ、低い者が高められる。悲しんでいる者は幸いである』と言った逆転の思想は、旧約以来、聖書全体に貫ぬかれています。この逆転した価値観に基づいて、義なる神が罪人を救うため人となられ、自ら十字架に向かわれるのです。これがイエスの語られた『わたしの杯』なのです。
この世の論理では『ばからしい・何の得にもならない・くだらない』と言った罵声でかたずけられてしまうような苦しみをイエスは引き受けられたのです。(Ⅰコリント1章21)。
 イエスの弟子も、十字架の贖いは別として『わたしの杯』と言うべき苦しみを経験する。日々自分の十字架を負い、この逆転の価値観によって生きなければならないのです。
 それが、人間関係で言えば『互いにへりくだり、仕え合うこと』になるのです。


三、弟子の訓練(25−27節)
 イエスは「人の子が仕えるために来たように弟子も互いに仕える者でありなさい」と教えられました。信じた順番で序列があるのではありません。学歴や家柄、この世の地位・財産によって序列がきまっているのではありません。指導的な立場にあればあるほど、誠実に、そして謙遜に、仕える者でなければなりません。
 後にイエスは、このことをもう一度、ご自身から弟子たちの足を洗うことによって視覚的・体験的に弟子たちに悟らせました (ヨハネ13章)。キリストの弟子はこの世の原則にのみ込まれてはなりません、師であるイエスに倣わなければなりません。

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