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(2016-04-10の週報より)

「わたしたちにそそがれた神の愛」

  

『私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった
ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5章8節)


一、罪による死と義とされること(ローマ4章25、5章1節)
 このローマ人への手紙を書いたパウロは、イエスが私の罪のために十字架で死なれたと語ります。イエスが、私たちの代わりに、聖なる神のさばきを受けてくださったということです。しかしキリストはよみがえられました。何故? 聖書は、人が罪を犯したので、その呪いとして『死』が人を苦しめることになったと言います。しかし、その罪がイエスによって除かれたのです。それで、死はその力を失いました。そのことの保証として、まずイエスがよみがえられたのです。言い換えると、イエスのよみがえりは、私たちの罪が取り除かれたことのしるしでもあるということです。その結果、私たちは、罪人でありながら、神に義と見なされると説明します。クリスチャンが『赦された罪人』であると言われるのは、まさにこのことなのです。
 もしそれを信じないならばどうなるでしょうか。せっかくの赦しを拒否したことになるでしょう。しかし、信じるならば、義と見なされます。そして、神との親しい交わりの関係に入れられるのです。神との平和をもつことになるのです。聖書の語る『平和』とは、単に地上の争いや戦いがないということではありません。罪という障害が取り除かれて、神との親しいまじわりがあるということです。


二、神の愛が注がれているということ(5章2ー5節)
 イエスによって救いの恵みに置かれた私たちは、将来、神が私たちを御国に招いて下さることを信じて喜びます。しかしそれだけではありません。今の様々な悩みや困難の中で、それすら喜ぶことができると聖書は教えています。何故でしょうか。
実は、様々な悩みや困難の背後に、神の愛があるのです。困難に耐えると、忍耐を学びます。忍耐は、私たちの人格的な品性を練り上げます。この品性は、ますます神への希望を生み出すと教えています。しかも、この希望は裏切られることがありません。というのは、御霊によって信仰が与えられ、実際に神との愛の交わりが与えられているからなのです。確実に、神が私たちの信頼にお応えくださるからなのです。


三、先行する神の愛(5章6ー11節)
 私たちは、親切な友には自分も親切にしたいと思うでしょう。失礼で意地悪な人には、かかわりたくないし、まして積極的に親切にするということになると躊躇するのが自然ではないでしょうか。
 ところが聖書は、私たちが神に立ち返ったから、神が私たちのための救いをよ用意してくださったとは言いません。私たちが神の前に正しくない時に、イエスは十字架にかかって死んでくださったこと記されています。両親の愛もそれに少し似ているかも知れません。
たとえ問題のある子供でも、親は自分の子であるということで、愛するのです。
 神は人をこよなく愛しておられます。見返りとしての愛・親切ではありません。私たちを愛するが故に、御子を十字架につけてさばき、私たちの罪に対する神の正しい怒りを、御子に注がれたのです。

 

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