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(2015-07-05の週報より)

「幸福の教え」

  

 心の貧しい者は幸いです.天の御国はその人の者だからです。(マタイ5章3節)


一、山の上で(マタイ5章1、2節)
 イエスは集まって来た大勢の人々から少し離れた小高い所で、弟子たちに教え始められました。当時の教師(ラビ)たちは弟子たちに教える時、座る習慣でしたから、イエスの弟子たちも、イエスが座られるのを合図に集まって来たわけです。
しかし、7章28、29節に書かれているように、少し離れた所にいる人々にもイエスの教えは聞くことが出来たようです。またイエスはこれらの話をこの時だけではなく、繰り返し話されていたことが、ルカ伝などから分かります。(ルカ6章20−38節)。


二、幸福な者(3−10節)
 では、幸福の教えについて学びましょう。3−10節をよく読んでください。まず気づくことは、ここで語られている幸福の条件が、私たちが常識的に考えているものとはまるで違うということです。『心の貧しい』『悲しむ』『飢え渇く』『迫害される』などは普通はみな幸福どころか、不幸な状態を表すことばです。しかし、イエスはこういった人々が幸福なのだというのです。いったい、どういうことでしょう。ここで、私たちはイエスの幸福の条件は私たちとは全く違うのだと言うことを知らなければなりません。ですから、私たちは自分たちの勝手な判断で幸・不幸を考えてはいけないのです。
 では、イエスの幸福の条件とは何でしょうか?。ここで挙げられている事柄を見ていくと、いくつかのことに気付きます。まず、自己中心でないことです。
『柔和』『あわれみ深い』『平和をつくる』などは自己中心であっては出来ません。
自分のことが第一になる時、人は他人に対する優しさやあわれみを失い、平和どころか他人といさかいを起こします。そこには幸福はありません。また神の前に、正しい事を熱心に求めていくことです。そこには、困難が伴います。10節にあるように迫害されるかもしれません。しかし、そういう人は迫害の中でも幸福なのです。
 そして、これがいちばん根本的なことなのですが、自分自身に絶望することです。3節の『貧しい』ということばはギリシャ語では『乞食のように貧しい』という意味があります。人の心は、それほど貧しく汚れているのです。それは罪のせいですが、それに気付いた人は幸福なのです。マルコの福音書に書かれているようにイエスは『罪人を招くために来た』(2章1節) 方だからです。イエスは罪を知り、苦しんでいる者と共に居て慰めてくださいます。なぜなら、その人のためにイエスは十字架につかれたのですから。ですから、
私たちはその招きに応じるために、自分自身が罪人であることを知らなければなりません。
そして自分をイエスに明け渡すことが必要です。その時、イエスは、私たちと共にいて下さいます。
 反対に私たちが自分の力に頼る時、イエスは私たちから離れます。常に、自分の貧しさを知り、神にゆだねる生活をしましょう。

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