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(2015-03-01の週報より)

「ゲッセマネの祈り」

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 わたしの願いではなくみこころのとおりにしてください。ルカ22章42節)

 

一、神の子イエスが十字架を前にして恐れ悲しまれたことは、私たちには信じ難い。しかし、ルカ22章44節には、汗を血のしずくのようにしたたらせながら苦しみもだえて祈られたとあり、ヘブル5章7節「自分死から救うことのできる方に向かって、大きな叫びと声と涙とををもって祈りと願いとをささげ」たとある。私たちには信じ難くとも、イエスが苦しみもだえながら祈られたことは確か穴ことである。

 網の子であり常に聖霊に満たされた方であるイエスのこの苦しみを、私たちはどのように考えたら良いのだろうか

 これは、イエスが『罪は犯されされませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた』(ヘブル4章15節)ことを教えるエピソードである。イエスは神のお立場で何の恐れも不安も痛みなく十字架に向かわれたノオではない。人として私たちと同じ死の恐怖を味わわれたのである。しかもイエスの死は個人的な死ではなく、私たちの罪を一身に背負って神の怒りをすべて引き受け、人類の代表者として経験する床別な死であったので、その苦しみはものであった。

二、神のみこころを選択する(39ー43節)

 主イエスは苦しみつつ祈って、神のみこころを知り,従おうとなさった。このことは、

聖霊に満たされると言うことが決してコンピュターの自動制御の様な人生を約束するものではないことを教える。イエスですら、人生の節目ごとに祈りつつ神のみこころを判断なさったのである。そして「わたしの願いのようにではなく、あなたのみこころのように」なりますようにと祈られた。『主の祈り』の中にある「みこころが……地でも行われますように」(:10) との祈りは、イエス自身の祈りでもあったのである。

三、神のみこころに従う(44−46節)

 イエスは苦しみの中で祈り、十字架だけが神のみこころであって、罪人を贖うための道

がほかにないこと「飲まずにはすまされぬ杯」42節)をはっきり確認なさると、最早ひるむことはなかった。何度励ましても眠って住まう弟子たちを再度とがめることもなさらなかった。イエスはこの弱い者たちのためこそ死んでいかれるのであり、復活の主イエスによってすべてを教えていただき、聖霊の力を賦与されるのでなければ、人が真実の力強く立つことはありえないことをご存知であったからである。

十字架を前にしてイエスの死が本当に私たちに代わって神の怒りを負った死であることを保証する。そして、私たちもまた、日々「みこころがなりますように」と祈りつつ信仰生活を送らなければならない。

             

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