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(2015-01-18の週報より)

「ベテスダの池」

  

神にとって不可能なことは一つもありません。 (ルカ1章37節)

 エルサレムにおけるこの奇跡に続いて、ユダヤ人指導者との論争が繰り広げられます。
その論争は、安息日をめぐって行われるが、焦点はイエスがメシヤであるかどうかです。
つまり、この奇跡もまた、イエスがメシヤであるかどうかを示しています。

一、イエスが問われた。(ヨハネ5章1ー7節)
 エルサレムの羊の門の近くに、ベテスダという池がありそこに38年間も病気に苦しんでいる男がいました。その男に、イエスは尋ねられました。『よくなりたいか』やぼな問のように思われる。38年もの間苦しんでいたのです。治りたいのは当たり前ではないか。しかし、長く病気をしていると、希望を失って治りたいという気力さえ失ってしまうことも事実です。
 その男は、自分の意志をはっきりと表さないで『私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません』と答えています。よくなる気力を失いかけ、他人のせいにする考えがそこにあります。イエスは、そのような思いを乗り越えて、生きることを求めておられるのです。
二、イエスが言われた。(ヨハネ5章 8、9 節 )

 そこで、イエスは彼に言われました。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』非常に簡潔なことばですが、その意味は豊かで深い。まず、イエスが強調されたのは、彼の意志です。他の人に頼るのではなく、自分の意志です。次に、彼の力です。他人に頼るのではなく自分の意志で起き上がり、歩き始めることです。それらは、もちろん信仰により、神の力によるのですが、ここでは王室の役人の息子のいやしの場合と違って、彼の信仰と力によって立ち上がることが求められています。『すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き始めた』。イエスがいやされたのですが、彼の力によって床を取り上げて歩きだしたのです。私たちも、自らの信仰によって床を取り上げて、歩き出そう。その時、状況は変わり、人生は開けるのです。

三、イエスが勧められた。(ヨハネ5章10ー15節)
 その男がいやされたのが安息日であったので問題になったが、論点はむしろ『取り上げて、歩け』と言ったのはだれかであった(12節))ユダヤ人指導者たちは、イエスが安息日にいやしたことと、ご自身を神と等しくされたことで ( 18節)ついにイエスを殺そうと考えるようになったのです。しかし、この時、その男は、その人が誰であるかを知りませんでした。
 イエスは、その男に言われました『見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから』よくなったことを告げ、励ましておられるのです。ただ、それに続いて『罪を犯してはなりません』と戒めておられます。その説明句を読むと『病気は罪の結果である』と言われているように思われます。それは、後期ユダヤ教の、病気は罪の結果であるという思想の現れであるという解釈もありますがむしろ信仰的な励ましの現れであると理解するのがいいでしょう。
 イエスは、肉体的にいやし、霊的に勧めておられるのです。そこに真実の愛があるのです。

* イエスは信仰を呼び起こされる。

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