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(2015-01-04の週報より)

「王室役人の息子」

  

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの
です。(ヘブル 11章1節)

一、イエスに願う(ヨハネ4章46、47節)

 イエスは、弟子とともに、最初の奇跡を行ったガリラヤのカナに行かれました。カペナウムには、王室の役人がいて、イエスが来られたことを聞き、早速訪ねてきました。そして『むすこが死にかかっているので、いやしてください』とお願いしました。
 この記述は、カペナウムの百人隊長の場合とよく似ており (マタイ8章5ー13節)百人隊長と王室の役人は同一人物であるする人もいるが、奇跡の内容がは全く違っています。したがって、別の出来事であると考えるのが自然でしょう
 王室の役人も、その息子のいやしをお願いしているが、百人隊長程は、その信仰があまり強調されてはいません。

二、イエスは治す(48ー50節)
 そこで、イエスは言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない』聖書の中で〈しるしと不思議〉は、2通りの意味で用いられています。まず、それは神の力の表れであり、イエスがメシヤである証拠であり (ヨハネ 2章23、使徒5章12節)。次はそれはメシヤである証拠であるが、それらを求めることは不信仰の現れである (ヨハネ4章48節)。病気のいやしを求めても、イエスを信じようとしない態度が問われているのです。それにもかかわらず、イエスは役人の息子をいやされます。『帰って行きなさい。あなたの息子は治っています。』イエスのいやしは、信仰を条件とするのではなく、その必要にこたえて行われました。人は、その身体的・物質的必要のみを求めるが、それににかかわらず、その必要にこたえられる。そこに、イエスの恵と愛とがあるのです。

三、イエスを信じる(50aー54節)
 王室の役人は、『イエスが言われたことばを信じて、帰路に着いた』百人隊長のように信仰が先行していないし、強調もされていません。しかし、王室の役人も、イエスのことばを信じたのです。その帰る途中で、息子が治ったことを告げられ、その時刻を尋ねると、イエスが言われたのと同時刻でした。そして『彼自身と彼の家の者が者がみな信じた』ここで『信じた』と言われているのは、単にイエスのことばを信じたというのではなく、イエス自身を信じたということです。
 イエスは、すでに述べたように、信じたから治したのではなく、その必要に応えて癒やされたのです。いやしは、信仰の結果ではなく、愛の賜物です。王室の役人と家族は、その不思議としるしによって、イエスを信じたのでした。神から遣わされたメシヤと信じたのです。その故に、この出来事は、ガリラヤのおける『第二のしるし』と言われ(54節) 特別な意味をもっているのです。私たちは、しるしを見ても見なくても、イエスは神から遣わされた救い主であると信じましょう。それが神の喜ばれる本当の信仰です。

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