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(2014-05-18の週報より)

「神はただひとり」

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わたしは主である。ほかにはいない。わたしのほかには神はいない。(イザヤ45章5節a)

一、自ら神を求める(歴代下34章1ー3節)
 ヨシヤ王の父アモンは、悪行を重ね、クーデターにより殺害されました。そのため、ヨシヤは8才で王になりました。ヨシヤ王は、信仰面でも家庭面でも恵まれた環境で育ったとはいえません。しかし、彼は、信仰深い王として生涯を送り、イスラエルに宗教革命をもたらしました。
 このことは、人は自分の人生を、通常は環境や他人のせいにはできないことを教えます。ヨシヤの場合、彼の人生を培ったものは、不幸な環境にかかわらず、イスラエルの子
の一人として幼い時から教えられていた (申命記6章4、5節)ということばでした。多感な思春期になった16才の時に『先祖ダビデの神を求め始め』るようになったという事実は、彼の不幸な生い立ちを考えると感慨深いものがあります。聖書のことばには、環境にかかわらず、そのことばを真剣にうけ止める人の人生に働き、滅びることを食い止め、変更させる力があるのです。

二、神の民をきよめる(歴代下 34章4ー13節、申命6章4ー8節)
?<悔い改め>律法によって育てられたヨシヤが、自分の力でことを行われる年齢に達した時、真っ先に行ったことは偶像を取り除くことでした。当時の政治状況では、偶像を除くことは北の大国アッシリヤに対して反旗をひるがえすことを意味していました。犠牲を覚悟して主のみことばに反するものを捨てると決意して実行する、これは個人の求道の段階では、『悔い改め』になぞらえることができるでしょう。
?<信仰>その次にヨシヤがしたことは、神の宮を修復することでした。神殿は、当時、イスラエルの人々の信仰生活の中心でした。その神殿と信仰をの修復することは、唯一のまことの神に対する信仰と礼拝の回復を意味します。これは個人の求道の段階では、『信仰」になぞらえることができるでしょう。「悔い改め」と「信仰」これは一つのことの両面です。『わたしは主である。ほかにはいない。わたしのほかには神はいない』と聖書にあるように聖書の神を信じるということは、それまでの宗教に加えてもう一つの新しい宗教も信じるということではありません。聖書の神のみを神として認めて、ほかに神はいないことを告白し、私たちの礼拝と信仰と服従のすべてを聖書の神にお捧げすることです。

三、聖書によって養われ、整えられる(歴代下34章14ー33節)
 ヨシヤの改革にこたえるかのように、神は、神殿において、主の律法を発見させてくださいました。このことにより、ヨシヤはより確信を持って改革に取り組むことができたばかりではなく、さらに改革の後、イスラエルの人々の宗教生活はどのようで在り続けるべきかということについて明確な指針を得ました。多くの日本人にとって宗教心とは、年の初めなどに寺院・仏閣に詣でることで、日常生活にほとんど影響を与えません。聖書の神を信じる者は違う。日曜日だけの信仰であってはいけません。生活のすべてが聖書に導かれていく生活です。

* まことの神は、ただひとりである。

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