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(2014-05-04の週報より)

「幸福について」

  

 
幸福について
 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5章3節)

一、この世で考える幸福
 私たちは、様々なものを幸せの鍵だと考えて、それを追い求めます。ある人は、姿が美しければ幸せだと思い、ひたすら外見を磨くことに手間をかけます。学歴さえあれが幸せだと思う人は、寸暇を惜しんで勉強に励み、出来るだけ偏差値の高い学校を目指します。
けんこうがしあわせのかぎだとおもうひとは、一生懸命体を鍛えます。多くの人の関心を集め人気があれば幸せだと考える人もいます。そういう人はピリピリするほど周りの人に気を遣って生活をします。あるいは、自分が本当にやりたいことができたら、幸せで充実した人生を送ることができると考える人もいます。でもそういう人ほど、自分が本当にしたいことが何かわからず、焦りと満たされない思いばかりを抱いてしまうのです。
 幸せの鍵をやっと掴んだと思っても、それはすぐ消え失せてしまうものではないでしょうか?。どんな美貌も、年齢とともに色あせます。希望の会社に入り希望の職業に就いても、その先の目標を見失ったらどうなるでしょうか。お金持ちになっても、さらに豊かな人を見ると物足りなくなります。どんなに健康に気をつけていても病気にかかることもあるのです。この世の幸せは、状況の変化や周りとの比較によって簡単に吹き飛んでしまう、はかないものなのではないでしょうか。

二、主イエスの教えられた幸せ(マタイ5章1ー12節)
 イエスは山に登り、弟子たちを前に『 幸せです』と宣言なさいました。イエスの言われる幸せな人とはどんな人だろうと、弟子たちイエスは思わず身を乗り出したことでしょう。でも、イエスのおことばがあまりに意外なので驚いたのではないでしょうか。
 3ー12節を読んでください。『貧しい』とは文字通り空っぽ、つまり破産状態にあることという意味です。何も持たない人がどうして幸福な人なのでしょう。でも聖書が言う幸福な人とは、実は、自分のうちには何もない、自分の力では人生の道のりを一歩も歩くことができない、自分が貧しくてみじめな存在であると知っている人のことなのです。自分の貧しさを神の恵みで満たしてくださいと主に叫ぶことのできる人こそ、本当に幸せな人であるとイエスはおっしゃいます。自分の判断、自分の力で歩くのではなく、毎日毎日、神の判断を仰ぎ、力を頂きながら歩む人は幸いです。主のご判断に誤りはないから、そして主は私たちの期待以上に、あふれるばかりに力を注いでくださるからです。
 『悲しむ者』は、神の前に自分の罪を悲しむ人、『柔和な者』は、神の御心に素直に従う人、『義に飢え渇いている者』は、神の正しさを求める人、『あわれみ深い人』は、神の愛を実践することのできる人、『心のきよい者』は、純粋な思いで神を求める人、『平和をつくる者』は、神との平和を回復し、周りの人との間に平和をつくり出す人、『義のために迫害されている人』は、キリストを信じているために苦しみに会っている人のことです。神の前に謙遜に、自分の醜い罪の姿を認めましょう。そして悔い改めましょう。主がありのままの私たちを愛し、ゆるし、受け入れてくださることを信じましょう。幸福の第一歩は、そこから始まるのです。

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