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(2013-03-17の週報より)

「ゲッセマネの祈り」

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『父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』(ルカ22章42節)

 刻々と迫る十字架の時を目前にし、豊かな人間性を帯びたイエスは、罪を知らない身であるだけに『罪からくる報酬』である死(ローマ6章23節)の現実を前にして『苦しみ悶え始められた』(37節)。その苦しみの中で祈られたイエスの祈りから、私たちは祈りの真髄を教えられます。


一、祈らずにはいられない思いに駆られたイエス(マタイ26章36−38)
 ゲッセマネに来られたイエスは、目前に迫る十字架の苦しみを前にして祈らずにはいられない思いに駆られました。悲しみ悶えるほどの苦しみを分かち合い、少しでも担ってくれる友として、イエスはペテロとヤコブとヨハネの3人を伴い『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさまして (祈って) いなさい』とお頼みになりました (38節)。31−35節を読めば明白なように、その期待に答えられないことを知りつつも、一諸に祈ることをお頼みになったのは、イエスの苦悩がどれほど大きく、深いものであったかを示しています。しかし、こんな場面で眠ってしまうような
彼ら『そして私たち』(マタイ章40、43、45節)、イエスのお心など少しも理解できなかったのです。

二、『みこころのとおりにしてください』(マタイ26章39−46節)
 イエスは地上生涯における最大の試練に遭遇されています。『父よ。みこころならば、この杯を私から取りのけてください』と三度も (何度も) 真剣にお祈りになりました(44節) それにかかわらず、御父は沈黙しておられる。それは愛する御子の決断にすべてをゆだねておられたからです。その御父をイエスは愛して、どこまでも御父のみこころに従うことを決断されます。その決断が『しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください』という祈りに結実しています(39節 ルカ22章42節)。『みこころのとおりに』とは、十字架への道を進むことです。
 イエスが『みこころのとおりにしてください』と、十字架への道を進む決断をされたのは、こんな時に眠っているふがいない弟子たちを罪から救うためでした。この奥深い愛の決断の神秘の中に無限の福音が隠されているのです。『見なさい、時が来ました…………さあ行くのです』(45、46節)。ご自分見捨ててを逃げ去る弟子たちのために十字架の道を進むイエスのお心がどれだけわかるでしょう。

三、『友よ。何のために来たのですか』(マタイ26章47-56節)
 イエスを逮捕するために祭司長や民の長老たちが差し向けた一団の先頭に立っていたのが『12弟子の一人であるユダ』です(47節)。彼はイエスに近づくと『先生。お元気で』と言って、合図の口づけをしました(49節)。そのユダに、イエスは『友よ。何のために来たのですか』と言われました (50節)。
 十字架への道を進むことが御父のみこころであり『預言者たちの書が実現するため』であると知っておられたイエスは(56節),ユダの裏切りを赦そうとしておられたのです。

* 十字架を目前にしたイエスの祈り

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