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(2013-03-03の週報より)

「ラザロと金持ち」

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『確かに、今は恵みの時、今は救いの日です』(?コリント6章2節)
 
 イエスの宣教の中心は『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい』(マルコ1章15節)ということでした。バプテスマのヨハネの宣教(マタイ3章2節)と似ていますが、ヨハネが神の国の到来を予告したのに対して、主イエスはご自身の到来とともに神の国(支配、主権)はすでに存在していることを宣言されました(ルカ11章20節)。

つまり、(神の国の完成は未来のことであるにしても)イエスを主と認める人のうちで、神の国はすでに始まっているのです。

 イエスは、人々が自分たちの過去の血筋や家柄に頼るのではなく、また信仰決断を未来にに先送りするのでもなく『今ここで』罪を悔い改め、イエスを主と認め、信じ従うよう、一人一人の主体的な決断をお求めになったのです。『金持ちとラザロ』の例えは、このことをよく教えています。

一、神の国に入る人(ルカ16章前半)
 イエスがこの『金持ちとラザロの例え』を話されたきっかけが、16章前半に記されています。イエスが神に仕えることの大切さを話しておられると、パリサイ人たちがあざ笑いました。金もあり、地位もあり、神の前に宗教的立場も確立していると思い込んでいるパリサイ人にとって、神に従うために富を犠牲にしなければならないとの教えは、ばからしいものでした。彼らにとっては『神も富も名誉も!』であり、地上での評判は神の前での評価と直結するはずのものでした。誰かが神の国に入るとするなら、それは自分たちをおいてないはずであるとパリサイ人はおもっていたのです。

二、神の国での逆転(ルカ16章19ー26節)
イエスは、パリサイ人が偽善者であり、人の評判は気にするが神の前では自分たちの真実の姿に無関心であることを知っておられたので、例えを用いて地上で金持ちであったが神の前ではその立場が一転してしまった男の話をなさいました。
 この『金持ちとラザロの例え』は、死後の世界の詳細を教えようとするものではありません。例えの中での死後の場面は『例え』という物語の枠内での舞台設定です。死後のことについては聖書全体から理解しなければなりません。
 この喩えは、地上の立場が神の前で逆転する場合が多いことを教えようとしています。
しかも置かれている状況が一転して金持ちの男は、もはやその立場を変えることはできません。地上でのあり方が、死後の自分の状況を決定するのです。

三、神の国に入る方法(27−31節)
 例えの中で『ラザロを私の父の家に送って(家族に言い聞かせて)ください』という金持ちの願いに対して、イエスは『モーセと預言者』が全てである、と結論づけられます。
 この結論は16、17節とも関係します。『モーセと預言者』とは旧約聖書全体のことです。イエスは旧約聖書の預言の成就としておいでくださったのです。したがって、地上において生かされている私たちが「今ここで』旧約のメッセージに耳を傾け、イエスを約束の救い主と認めて信じ従わない限り、神の国に入る方法はありません。自分を義とし、神の言葉に耳を閉ざすものには、復活のメッセージすら意味を持たないのです。

*主題=恵みの時に主を信じ従おう。

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