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(2012-05-14の週報より)

「心に注がれる神の愛」

  

 私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。    (ローマ5章8節)

God demonstrates his own Iove for us in this: While we were still sinners. Christ died for us. Romns 5 : 8

*聖書箇所=ローマ4章25ー5章11節 

一、罪による死と義とされること(ローマ4章25ー5章1節)
 このローマ人への手紙を書いたパウロは、イエスが、私たちの罪のために十字架で死なれたと語ります。イエスが、私たちの代わりに、聖なる神のさばきを受けて下さったということです。しかし、キリストはよみがえられました。なぜでしょうか。聖書は、人が罪を犯したので、その呪いとして『死』が人を苦しめることになったと言います。しかし、
その罪がイエスによって除かれたのです。それで、死はその力を失いました。そのことの保証として、まずイエスがよみがえられたのです。言い換えると、イエスのよみがえりは私達の罪が取り除かれたことのしるしであるということです。その結果、私たちは、罪人でありながら、神に義とみなされると説明しています。クリスチャンが『許された罪人』であると言われるのは、まさにこのことなのです。
 もしそれを信じないならばどうなるでしょうか。せっかくのゆるしを拒否したことになるでしょう。けれども信じるならば、義とみなされます。そして、神との親しい交わりの関係に入れられるのです。神との平和をもつことになるのです。聖書の語る『平和』とは、単に地上に争いや戦いがないということではありません。罪という障害が取り除かれて、神との親しい交わりがあるということです。

二、神の愛が注がれているということ(ローマ5章2—5節)
 イエスによって救いの恵に置かれた私たちは、将来、神が私たちを御国に招いてくださることを信じて喜びます。しかし、それだけではありません。今の様々な悩みや困難の中でそれすらも喜ぶことができると聖書は教えています。なぜでしょうか。実は、様々な困難や悩みの背後に、神の愛があるのです。患難に耐えると、忍耐を学びます。忍耐は、私たちの人格的な品性を練り上げます。この品性は、ますます神への希望を生み出すと教えています。しかも、この希望は、裏切られることはありません。というのは、聖霊によって信仰が与えられ、確実に、神が私たちに信頼にお答えくださるからです。

三、先行する神の愛(5章6ー11節)
 私たちは、親切な友には自分も親切にしたいと思うでしょう。失礼で意地悪な人には、関わりたくないし、まして積極的に親切にするということになると、躊躇するのが自然ではないでしょうか。
 ところが聖書は、私たちが神に立ち返ったから、神が私たちのための救いを用意して下さったとは言いません。私たちが神の前に正しくない時に、イエスは十字架にかかって死んで下さったと記されています。両親の愛もそれに少し似ているかもしれません。たとえ問題のある子供でも、親は、自分の子であるということで、愛するのです。
 神は、人をこよなく愛しておられます。見返りとしての親切ではありません。私たちを愛するがゆえに、御子を十字架につけてさばき、私たちの罪に対する神の正しい怒りを御子イエスに注がれたのです。

* 5月13日(母の日)私達の心に注がれる神の愛

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