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(2012-02-19の週報より)

「ラザロ」

  

 わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

(ヨハネ11章25節)                                    
                                
一、ラザロは死んで4日もたっていた(ヨハネ11章1—13節)
 ベタニヤのマルタとマリヤ姉妹のことがルカ10章38節以下に出てきますが、姉妹にはラザロという兄弟がいました。彼らをイエスは『愛しておられた』(5節)。そのラザロが重い病気にかかって、死にかけていました。姉妹たちは、信頼しているイエスに使いを送ってラザロの癒しを願ったのです。
 しかし、イエスは報告を受けてなお二日もその場所にとどまっておられました。そしてその時、『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです』と言われました。
 マルタとマリヤにしてみれば非常に悲しいことですが、しかし、イエスには特別な目的があったのです。それで、時が来たときに、ついにイエスは『私たちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです』と弟子に言われたのです。

二、イエスの涙の意味(ヨハネ11章17—37節)
 イエスとその一行がラザロのところに到着すると、ラザロは墓に葬られてすでに四日が経過していました。姉のマルタも妹のマリヤもイエスの到来が遅れたことを嘆いて訴えました。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』
 しかし、イエスはマルタに『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです』とおっしゃいます。イエスは、ご自分がやがて十字架にかかり、死んで三日目によみがえることと救いのご計画についてお示しになったのです。しかも、それはこれからラザロにしょうとしておられることにも関係していました。主は、マリヤたちが泣いている様子をご覧になり、涙を流されました。その涙にはどんな意味があったのでしょう。聖書は『霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて』と記しています。人の死に遭遇して、単にその絶望的な悲しみにを共に味わわれたということではありません。
 主は、死の悲しみの原因を知っておられました。アダムやエバが神に背いて罪を犯したので、死が人を苦しめるようになったと聖書はおしえています。また、死は最後の敵と呼ばれています。 (?コリント15章26節) 主は、罪がもたらした死が人をこれほどまでに苦しめていることを同情をもってご覧になったのです。そして、霊の憤りと心の動揺を覚え、涙ともに、ご自分の使命を確認しておられました。イエスは、この悲しみを除くためにこの地上に来られました。それは人をこよなく愛される主の姿でした。

三、ラザロの復活(ヨハネ11章38—46節)
 イエスは、墓の石を取り除けるように命じ『ラザロよ。出てきなさい』と大声で叫ばれました。すると、ラザロが埋葬された時のままの姿で墓から出てきたのです。人々の驚きと二人の姉妹の歓喜はどれほどのものだったでしょう。ラザロ自身はどのような体験として受け止めたでしょうか。聖書は何も語っていません。
 一方で、ラザロのよみがえりは延命のようなものであったと言えるでしょう。ラザロも、やがて寿命が来れば召されるはずです。しかし、これは将来のイエスの復活と私達の永遠のいのちの希望を保証する大切な一つのしるしとなりました。

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