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(2012-01-23の週報より)

「イエスにとどまる」

  


『私はぶどうの木で、あなた方は枝です。人がわたしにとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。』(ヨハネ15章5節)
I am the vine; you are the branches .If a man remains in me and I in him. he will bear much fruit; apart from me you can do nothing. John 15 : 5

一、ぶどうの木とその枝(ヨハネ15章1ー8節)
当時の人が待望するメシヤ(救い主)は、ローマの支配からイスラエルの民を開放して、イスラエル王国を再建する政治的な改革者でした。けれども、これまで聖書が語り、また主ご自身が示されるメシヤは、それとはまったく違っていました。そうした背景の中で、主イエスはご自身のことをいろいろな例えを用いて説明しておられました。

 ここでは、主は『わたしはまことのぶどうの木あり、わたしの父は農夫です。』と言われました。ご自分を『ぶどうの木』として示されています。このぶどうの木は「まこと」のぶどうの木であると言います。偽物のぶどうの木が存在することが意識されています。イスラエルの人々は誤った教えを主張するユダヤ人指導者の存在に迷わされてきました。だから実を結ぶことができませんでした。

 さらに『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます』と続けられます。私たちは『枝』であって、木につながって、実を結ぶようにということです。そうでなければ、農夫である神がその枝を取り除き、実を結ぶものは、さらに訓練の刈り込みをされるということです。

 私たちが主にとどまり、また主が私たちのうちに住んでくださるなら、実を結ぶと言われています。主を離れては何もできないとも語られました。それは、主のみことばを信じて、主の弟子として生きることを意味しています。

二、主イエスの愛の中にとどまる(ヨハネ15章9ー15節)主にとどまるようにと語られた主イエスは『わたしの愛の中にとどまりなさい』と言われます。クリスチャンが神を信じるということは、単に神が存在していることを信じるということではありません。悪魔も,神のことを私たち以上に知っているわけですから、そうであれば悪魔も神を信じて従っているということになってしまいます。
 主が教えておられる信仰とは、主に信頼し、主の語られた戒めに従おうとすることです。
そして、主の戒めとは、主が私たちを愛してくださったように、私たちも『互いに愛し合う』ことです。
 主イエスは、私たちを愛するがゆえに、私たちの罪の身代わりとして、十字架にかけられ、神にさばかれました。その愛を受けた私たちは、私たちの隣人を愛するようになります。これが主の愛にとどまるということです。人を愛そうとしないなら、その人は主の愛にとどまってはいないということです。まだ十字架のゆるしと愛を知らないという可能性もあるということです。

三、行って実を結び、その実が残るため(ヨハネ15章16、17節)十字架の赦しを信じる者とされたとするならば、それは、自分でそのように決断したのではありません。主が私たちを選んでくださり、主の愛にとどまるようにしてくださったということです。それによって、私たちが実を結び、その実が残るためだと教えられています。主の愛にとどまるときに、私たちにも愛が与えられます。そして他の人を愛する私たちに働く神の愛を見ることになるのです。神の素晴らしさを示すことこそ私たちの使命なのです。

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