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(2011-04-03の週報より)

「最後の判決」

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神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。    (㈼コリント5章21節)

Him who knew no sin he made to be sin on our behalf; that we might become the righteousness of God in him. (2Corinthians5 : 21)

一、イエスの無罪を主張したピラト(ルカ23章13−22節)
 ピラトは、当時のユダヤを支配していたローマ帝国がパレスチナに駐在させていた五代目の行政官で、総督とも呼ばれていました。ピラトはユダヤ人たちを痛めつけることを喜びとしていたようで、ユダヤ人歴史家ヨセフスもピラトの残忍さをを伝えています。ルカ13章1節には、聖所でいけにえをささげているガリラヤ人を殺害する命令をピラトが与えたという記事があります。しかしここでは、その彼が何とかしてキリストを釈放しようとしたのです。彼はキリストに罪がないことを四度にわたって繰り返し(4、14、15、22節)、イエスを釈放することを3度にわたって提案しました (16、20、22節)。ピラトの口を通してキリストの無罪が証言されるとは、なんと不思議なことでしょうか。ピラトの宣言は、ユダヤ人たちが本来問題としたかった神への冒涜に関するものではなく、ローマの裁判に持ち込まれた騒乱罪における無罪にとどまるものだったのでしょう。けれどピラトを通してキリストの無罪性がが強調されていることに、私たちは、神の不思議な主権と導きを見ることができます。

二、人の恐れと神の業(ルカ23章23=24) 残忍だと言われるピラトではありましたが、当時、地元民が為政者を皇帝に訴える権利をもっていたため、群衆を恐れます。権力を振りかざす者は結局、権力を恐れる弱さがあります。強がる人の内側には、裏返しとして弱さがあることを知らなければなりません。人を恐れるピラトは、キリストの無罪を確信しつつ、何とかイエスを釈放しょうとして、折衷案としてむちにによる懲らしめを提案しました。しかし、群衆は、過ぎ越しの祭の時には一人の犯罪人が釈放されるというきまりをイエスではなくバラバに適用し『この人(イエスを)を除け。バラバを釈放しろ』(18節)と叫んだのです。わずか数日前にろばに乗ったキリストがエルサレムにお入りになった際、しゅろの葉を手に『ダビデの子にホサナ』と叫んだ群衆はどうしたのでしょうか (マタイ21章1−9節)………………群衆の叫びの前にピラトの動揺は頂点に達しました。そしてついに『十字架だ。十字架につけろ』(21節)との群衆の声が勝ったのです。ピラトは群衆の機嫌をとるかのように、キリストを引き渡しました。人を恐れるピラトの弱点を突いて、キリストの十字架刑が確定したのです。サタンの策略は巧妙です。しかし、その十字架を用いて、罪のない方が私たちの代わりに罪とされ、贖いの業が完成するのです。

三、赦された犯罪人(ルカ23章25節)
 キリストの代わりに赦されたバラバは『都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた』(19節) 男でした。完全に死刑を覚悟していた殺人者が、赦されたのです。彼の驚きはどうだったでしょうか。彼はキリストの十字架をどのような思いで見つめたのでしょうか。自分がかかるはずだった十字架。そこの自分の代わりにかかっている者がいる…… そして私たちは、その十字架をどのように見つめるのでしょうか。私たちの代わりに苦しまれたキリストの十字架。私たちこそがはりつけられるべき十字架にキリストがかかられたのです。

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