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(2011-03-20の週報より)

「ゲッセマネの祈り」

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父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、
わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。 (ルカ22章42節)

saying, Father, if thou be willing, remove this cup from me: nevertheless not my will, but thine, be done.(luke 22 : 42 )

一、ゲッセマネの苦悩(マタイ26章36−38節)
 十字架の苦しみを前に、イエスは祈るためにゲッセマネという所に来られました。神の御子は私たちと同じように恐れを覚え、苦悩の夜を過ごされました。しかし、それは単に十字架刑の肉体的な苦しみを恐れたということではありません。教会の歴史には、激しい迫害の中で信仰を最後まで守り通し、殉教したクリスチャンたちが大勢います。しかし、主は、全人類の罪の身代わりとして神にさばかれるのです。罪のゆえに神から御顔を背けられ、見捨てられるということほど恐ろしいことはないのです。主は悲しみの中で弟子がそばにいてくれることを心から望みました。神である方が人の励ましを必要とされたという事実に、いろいろなことを教えられます。すべてをご存知の主が神のさばきの恐ろしさを示されました。同時に愚かな弱い人間を用なしと思わず、なおも信頼して大切な働きをおゆだねになるということです。

二、心の思いを注ぎ出して(マタイ26章39−46節)
 イエスは少し進んで『できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らして下さい』と祈られました。それでも主は、父なる神のみこころをご存知です。十字架にかかることは神のみこころです。ですから,この祈りを『しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころにように、なさってください』と閉じられました。主は心の思いを注ぎ出して祈られました。
 私たちの心の思いをご存知の神は、理想的なことだけを祈るというようなことを望まれません。父なる神との親しい交わりの中で心の思いを注ぎ出すことを喜んで下さいます。
 しかし、弟子たちはイエスの苦しみを充分理解してはいませんでした。緊張もなく、睡魔が襲ってきて、残念ながら彼らはイエスの祈りにおける格闘の事実を知らなかったのです。 
 私たちも、弱さのゆえにみこころを理解できないことが多々あります。だからこそ、目を覚まして誘惑に陥らないよ祈らなければなりません。

三、捕らえられたキリスト(マタイ26章47−56節)
 ユダは、イエスと弟子たちが、一般の群衆から離れてゲッセマネの園にいることを知っていました。そこはイエスを捕らえるのに格好の場所です。計画を妨げる者は誰もいません。ユダは、そのことを祭司長や長老たちに知らせ、彼らから遣わされた群衆と共にやってきました。そして
、弟子たちと一緒にいるイエスに口づけの挨拶をして、どの人が捕らえるべきイエスなのかを群衆に示しました。イエスは『友よ。何のために来たのですか』とお尋ねになりました。裏切るユダに対して最後まで主は誠意を尽くし、彼を友と見なしておられたのです。
 弟子の一人 (ペテロ) は、大祭司のしもべに襲いかかり、剣で耳を切り落としたと記録されています。しかし、主はこのしもべをいやし、弟子に剣を納めるように命じました。
 こうして、イエスは、ご自分を群衆の手にゆだねられました。それは聖書に書かれていることが実現するためであり、また神のみこころのとおりにと祈られたイエスの、救い主としての従順な姿でした。

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