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(2017-09-24の週報より)

「苦しみの日の祈り」

  

 ヨブ記(1、2章10、11、40章1−5節)、42章
    主は与え、主は取られる、主の御名はほむべきかな  (ヨブ記1章23c)


 一、苦しみの日に主に信頼する(ヨブ記1、2章)
 ウズという町に住んでいたヨブは、多くの召使や家畜を持つこの地方一番の大富豪でした。また心から 神を畏れる正しい人でもありました。ところがある日突然敵の襲撃や災害で、召使、息子や娘たち、そして一切の財産を失ってしまいました。ヨブは神を呪ったでしょうか。いいえ、ヨブは地にひれ伏して礼拝し、こう言いました。『私は裸で母の駘から出てきた。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』ヨブはすべてを失っても、愚痴一つこぼさなかったのです。ヨブの災難はそれだけでにとどまりませんでした。今度は全身ひどいおできで覆われ、その痛みは相当のものでした。それでもヨブは『幸を神から受けるものだから、わざわいをも受けるべきだ』といい、決して罪を犯すようなことを口にしませんでした。


二、友人たちの非難に対するヨブの返答(23・8−14)
 そんな時三人の友人たちがヨブを訪ねて来ました。初め三人は、苦しみの中にいるヨブを慰めていましたが、やがて非難をし始めました。ヨブがこんなにひどい目に逢うのは、ヨブが何か悪いことをしたからに違いないというのです。苦しむのは悪人だけというわけです。しかし、ヨブは自分の半生を振り返り、いくら考えてもそのような隠れた罪を思い当たる節がありません。考え抜いた結果、ヨブは、この苦しみは神から与えられた試練であると結論づけたのです。10節のヨブのことばを見ましょう。ヨブは自分の生まれた日を呪っても、最後まで神を呪うことをせず、苦しみに耐え抜きました。ヨブのことばどうり、神によって試されたその信仰は、まさしく『金』にように強くすばらしいものでした。私たちは、どんなに神を信じていても悲しみや苦しみに逢うことことがあります。しかし、それは、神が私たちを愛するが故にお与えになる試練であり、訓練なのです。(へブル12・11)を読みましょう。神は苦しみや悲しみを通し、私たちを
神の民としてふさわしい者に変えてくださるのです。また、その苦しみは、自分一人で耐えるのではありません。必ず神が共にいて、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださるのです(Ⅱコリント1・4)


三、神ご自身の語りかけとヨブの悔い改め(38章−42章)
 友人たちとヨブとの議論の後、神ご自身が嵐の中からヨブに語りかけられました。神は、ヨブの苦しみの理由を明らかにされませんでした。しかし、苦しみのただ中にあるヨブをあわれみ、心に留めておられることをはっきりと示されたのです。ヨブも、今置かれている苦難に対する説明はなくても、神が自分を確かに顧みていてくださることに深く感謝をし、三人の友とむなしく議論をしたことを悔い改めたのでした。
 どんな状況に中に置かれても、また、それがどうしてなのか説明がなくても、神に信頼する信仰をヨブは得たのでした。そのようなヨブに、神は前にも勝った祝福をお与えになりました。神は、ご自分に信頼する
者に必ず報いてくださるお方なのです。

 

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