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(2017-05-28の週報より)

「山上の説教」

  

心にきよい人は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ5章8節)
 主イエスは、おおよそ三十歳で福音を伝える生活(公生涯)の入り、最初の伝道を始められました。


一、山上の説教(マタイ4章17、23ー25、5章12節)
 イエスの宣教は、マタイの福音書では『山』でなされルカの福音書では同様の説教が 『山を下り、平らな所』(6章17節)でなされています。山であったのか、平野であったのか、あるいは話全体も微妙に違っていたり、適用が異なっていたりしていることもあります。こうした場合、すぐ、イエスが話されたのはどういう話なのか、後代の教会が補ったり、修正したりしたのはどの部分かという議論がなされるが、こうした議論はほとんど意味がありません。伝道者であれば、同じ話を何度でも繰り返し様々なところで話し、聴衆に応じて話の筋立てや強調点を、適用を変えるのは当然のことです。
(机上で研究している学者にはわららないかも知れないが)
 聖書記者はそうしたイエスの説教からそれぞれ心に残ったことを記しているのであって、どのバージョンも主イエスのオリジナルの話を伝えているのです。


二、幸福とは何か(5章3節)
 イエスは『山上の説教』を『幸福な者』についての描写から始められました。何が幸福かは、人の数だけ様々な考え方、定義があるでしょう。
 しかし、イエスが語っておられる幸福の定義は『神に祝福された状態』です。この世の何ものによっても奪われることのない、人生のどのような試練によっても消滅することの無い『真の幸福』それは、創造主であり、父であられる神からの祝福を頂けるのです。
三、幸福な者とは誰か(5章3−12節)
 イエスは、神に祝福された真に幸福な人の定義を八つの面から語られました。
八つの別々のタイプの人がいるのではありません。真に幸福な一人の人の、四方八方から見た八つの側面を描写しているのです。
 それは『神に祝福されて当然』と考えるおごり高ぶりとは無縁の『心の貧しさ』から始まります。この貧しさは、心の卑しさ・貪欲さではありません。自分の内に誇れるようなものがあるとは思えない、みじめさ・足りなさの実感です。
 自分の心の貧しさを実感する者は、悲しみを覚えます。そして他人に対しても寛容で柔和な〔思いやりの深く優しい〕思いをもつ。心の内に飢え渇きを覚えて、神から義を頂くことを切望します。神からの義とゆるし、憐れみをを求める者は、当然、他人もゆるそうとする憐れみを持つ、汚れを離れて清く生きようと願い、平和を作り出すために努力します。けれども、こうした価値観をもつ者(つまり神とその祝福を願い求める者) は、この世の弱肉強食の価値観とは相容れないため、人々からのけ者にされ邪魔者扱いされる事もあります。『山上の説教』は、このように冒頭から、この世の価値観を逆転させ、神の価値観に立つことを力強く求めているのです。


       『山上の説教』
 

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