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(2020-03-21の週報より)

「ゲッセマネの祈り」

  

主題 ゲッセマネの祈り                      
   十字架を目前にしたイエスの苦しみ。


聖句=父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、
    みこころのとおりにしてください。           (ルカ22章42節)
*どうすることもできないような困難にあったことがありますか。自分に何か大きな過失があって被ってしまった困難もあれ場、突然一方的に受けた苦しみもあるでしょう。そのようなとき、皆さんはどうするでしょう。主イエスは、ご自分が受けなければならない十字架を前にして、祈られたことが聖書に記されています。イエスは祈りの終わりに、父なる神にすべてをゆだねられました。
聖書箇所=ルカ22章1−6、39−53節


一、ユダの裏切り(1ー6節)


 エルサレムでは、過ぎ越しの祭りが近づいていました。人々は、この祭りを楽しみにしていたことでしょう。そして彼らは、今回の過ぎ越の祭りに何か特別なものを感じていたようです。皆、朝早く起きて神殿に急ぎました。そこでは、主イエスが人々に神の国の福音を語っておられたからです。
 その様子を見ていた神殿の祭司長や律法学者たちは、人々の心が自分たちから離れて、イエスの方に向いて行くことに不安を覚えていました。そして、どうにかしてイエスを捕らえて殺そうと、真剣に考え始めました。群衆の熱狂と、それを妬む指導者たち。弟子はこの二つの雰囲気を感じ取っていたはずです。そのような状況のもと、イエスの12弟子の一人、イスカリオテのユダの心の中の特に金銭に対する欲にサタンが働きました。彼は日頃から金入れを預けられ (ヨハネ12・6節) 、小さな罪を犯すことに慣れすぎていたのかもしれません。一人になった時、群衆や仲間の弟子たちから離れ、神殿の内部に忍び込んで、祭司長や宮の守衛長とイエスを売り渡す相談をしました。


二、ゲッセマネの祈り(39−46節)


 過ぎ越のし祭りを祝うためにエルサレムに来られてからイエスは何度、この山に登られたのでしょう。
でも、この夜は特別でした。イエスはこの夜、父なる神が計画し、そしてそれを成し遂げるためにお生まれになったその務めをまさに果たそうとしておられました。
 誰でも、死というものを恐れない人などいません。まして、当時最も残酷な死刑の方法であった十字架で殺されることになるということになるということを知っていたら、人は色を失い、震え上がるでしょう。主イエスの場合は、けっしてそれだけではありませんでした。父なる神のさばきを受けようとしておられたのです。自分の罪のためのさばきではありません。全人類の罪に対する、神の恐ろしい審判をです。それこそが、神が世を救うために定められた唯一の方法であることを、イエスは知っておられたからです。
 イエスは弟子たちから離れて、一人で祈られました。『父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願ではなく、みこころのとうりにして下さい。』(42節)そして、苦しみもだえながら祈りました。汗が血のしずくのように地に落ちました。祈り終えて弟子たちのもとに戻ると、彼らは悲しみの果てに眠りこんでいました。


三、イエスの逮捕(47ー53節)


 そこに、群衆が山に登ってきました。昼間、イエスの教えを受けるために神殿に上ってきた時とは違い、彼らは武器を手にしてきたのです。その群衆の先頭にユダがいました。彼は進み出て、イエスに口づけしようとしました。それが群衆と申し合わせていた合図だったのです(マタイ26章48節)。それにしても、裏切りの合図に、本来は愛を表現する口づけをもちいられたのはどうしてでしょう。しかし、イエスは、むごたらしい十字架の死を、神の愛の最大の表れとしてお用いになりました。
(祈りましょう)


 

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