すべてのメッセージのタイトル一覧
(2018-10-14の週報より)

「神は心をご覧になる」

  

神は心をご覧になる
    『人はうわべを見るが、主は心を見る』(ⅰサムエル16章7節)
目標  神は私たちの外見や能力、性格ではなく、心ののうちに、主をより頼み、主を愛する思いが
    あるかどうかをごらんになる。
聖書個所 Ⅰサムエル16章

一、エッサイのもとへ(Ⅰサムエル16章1−5節)


 王位から退けられたサウルにことを思って悲しむサムエルに、主はベツレヘムに行くように命じました。主は、ベツレヘムに行くよう命じました。そこに住むエッサイという人の息子の中に、次の王になるべき人がいるというのです。サウルの怒りを恐れて尻込みするサムエルに、主は具体的な指示をお与えになりました。そこに住むという人の息子の中に、次の王になるべき人がいるというのです。サウルの怒りを恐れて尻込みするサムエルに、主は具体的な指示をお与えになりました。『主にいけにえをささげに行く』という理由で出かけ、いけにえをささげているところに、エッサイ一家を招くようにと命じになったのです。サムエルは早速ベツレヘムに行き、主のおことばどおり、エッサイと息子たちを招きました。


二、油を注がれるダビデ(6−13節)


 エッサイは、息子たちを連れてやってきました。サムエルは、背が高くて王にふさわしい風格のある長男エリアブを一目見て、この人こそ神が選ばれた人だと直感しました。しかし、主のお考えは違いました。主は、うわべ、つまりその人の外見や能力などではなく、心をご覧になるとおっしゃったのです。次男アビナダブ、三男シャマも、神が選んだ人ではありませんでした。そしてそこのいた全員がサムエルの前に立ちましたが、主の目にかなう者は一人もいませんでした。ほかに息子はいないのかサムエルが尋ねるとエッサイは、羊の番をしている末っ子いると答えました。なんとその少年ダビデが、神が王としてお選びになった人だったのです。(11−13節)
 皆さんは『心を見る』と言われて『ああよかった。私は心には自信がある』と胸を張ることができますか。きっとそんな人はいないでしょう。神の前に罪のない人はいません。非のうちどころがない完璧な人など、この世に一人もいないのです。もちろんダビデも、失敗することも罪を犯すこともありました。それでは、ダビデの心のどこが主のみこころに、かなったのでしょう。それは、ダビデの心には、神といつも親しい関係でいたいという願いがあったからです。ダビデにとって、神のみこころを行い、神に御名がほめたたえられることが自分の喜びでした。そして失敗したり罪を犯したときには、心から悔い改めて神の赦しを祈り求めました。これは、残念ながらサウルには欠けているものでした。
 神はそのような、常に主を求める心をダビデのうちに見出し、次の王としてお選びになったのです。


三、サウル王に仕えるダビデ(14−23節)


 一方、主の霊が去り、心の平安を失ったサウルは、不安におびえるようになりました。家来たちは、美しい音色で王の心を落ち着かせることができるのではないかと提案しました。そして、なんと琴の名手であったダビデが連れてこられたのです。神の不思議な導きによって、ダビデはサウル王に仕える者になりました。
ダビデはサウルのために心をこめて立琴を弾き、それを聴くたびにサウルは元気を回復しました。主はサウルを王として退けましたが、ダビデを用いて慰めを与えてくださいました。
 ダビデにあって、サウルに決定的に欠けていたもの、それはまことの主との生き生きとした交わりでした。
サウルがサムエルを通して間接的にしか主と繋がっていなかったのに対し、ダビデは主に直接祈り、主から
じかに答えを得ようとしました。私たちも、日々みことばに親しみ、祈ることによって、主との関係をしっかり築くことができるのです。
(祈りましょう)

 

聖書箇所を検索:サムエル記上(結果はページ右に表示されます)
福音書の主な出来事:該当なし



 

Copyright (c) 東大阪キリスト教会