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作者 Administrator
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2007/01/25 木曜日 21:41:53 JST |
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 ヘブル12章2節)
一、賞を得るために (ヘブル12章1、2節)(1コリント9章24−27節) 競技場を走る者はゴールをめざします。ゴールがどこか分からないで走り出す人はいません。ところが人生となると、何のために、何を目的に生きるかを考え ていない人がいます。また、ゴールのあることすら知らない人もいます。そのようなことでは価値のある人生を送ることができるはずがありません。
昔、ギリシャのオリンピック競技では、勝利を得たものには月桂樹の葉の冠が与えられました。コリントの町の郊外で二年に一度、イスムス競技会が開かれていました。競技に 加わる者は賞を得るという目的をめざして走り続けるのです。
パウロはそれをたとえて、人生を走りぬいたキリスト者には『朽ちない冠』(1コリント9章25節)が与えられると語っています。月桂樹の葉はやがて枯れてしまいます。しかし信仰の人生という競技場を走るキリスト者に与えられるのは『朽ちない冠』です。
これは神が私たちに与えて下さる永遠に朽ちることのない栄光の冠なのです(1ペテロ5章4節)。 さてヘブル12章2節には人生の競技を走りぬいて賞を得るための秘訣が記されています。 それはイエス・キリストから目を離さないことです。時にはさまざまな誘惑が私たちを惑わすことがあるかもしれません。
その時は、主を見上げましょう。主は私たちの足を強め、私たちの歩みを導いて下さいます。
二、主の訓練 (ヘブル12章3−13節) どのようなスポーツでも勝利の栄冠を得るためには日頃のトレーニングが大切であることは言うまでもありません。信仰でも同じことが言えるのです。
主は私たちを懲らしめることによって訓練することがあります。たとえば、丹頂鶴の母親は我が子を実にこまやかに面倒をみます。
ところがある時期を境にして子供たちを巣から追い出しにかかります。 それは我が子を独り立ちさせるためです。そうでなければ、遠いシベリヤまでとうてい飛んでで行くことはできません。それと同じように、私たちは信仰の競争を走りぬくために は、主からの訓練が必要なのです。
ヘブル12章5、6節は箴言3章11、12の引用です。私たちが経験する苦しみ悲しみは神が与えられたもので、それを訓練だと思って耐え忍ぶように勧めています。それは、主が私たちを愛すればこそなさるものだからです。
もしそのような懲らしめがないなら、本当の神の子ではないとさえ言っています。母親が我が子がどんな悪いことをしても放っておくならば、その子は親から愛されているとは思わないでしょう。
では懲らしめる目的は何でしょう。10節を見て下さい。『私たちをご自分の聖さにあずからせようとして』もし、私たちが何の苦しみも味あわなければ自分の力を過信して傲慢になり、神などいらないと思ってしまうかもしれません。
苦しみは、私たちに自分の力の限界を知らせ、全知全能の神のもとへ押しやってくれるのです。 |