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作者 Administrator
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2007/01/25 木曜日 21:36:09 JST |
みこころが天で行われるように地でも行われますように。(マタイ6章10節)
『山上の説教』の中で、主イエスが「祈り」について教えられたことの基本は、 人に見せるための偽善的な祈りではなく、 神に向かって真実の祈りをささげるように、と言うことなのです。
一、見せかけの祈り。(マタイ6章5−8節)
日本では少数派のクリスチャンは、町中や食堂で、周囲の人々に見られながら祈ることに照れや恥じらいを感じることがあるかも知れません。 けれども宗教国家であるイスラエルでは、公衆の面前で宗教的な行為を行うことは誇るべきことでした。 社会的な賞賛を受けようとする人々は率先して、あえて公衆の面前で仰々しく祈りや断食、施しといった宗教的行為を行ったのです。 そこには信仰深さや真実さよりも見栄や自己顕示欲があふれていたのです。
<人から受ける報い> 神に真実に向かう祈りは、神からのお答えを期待することができます。 しかし人に見せるための祈りは、神に届く前に、すでに『人からの賞賛』という報いを受けて、その役目を終えてしまっているのです。
二、祈りのしかた(マタイ6章6−8節)
<一人静かに> イエスは、真実の祈りのしかたをお教えになりました。 それは、人に見せ、聞かせるための祈りではなく、一人静かに神に向かう祈りです。 もちろん、皆で一緒に祈ることも否定しているのではない。 それも必要かつ重要なことです。 どのような場合でも、祈りは神に向けて祈られるべきなのです。
<率直なことばで> イエスはまた、単純明快な、素直なことばで率直に祈るべきことをお教えになりました。 これも、素晴しい祈りのことばを否定しているわけではありません。 信仰の先輩はすばらしい祈りをささげるかも知れません。 けれども、そのまねをして自分でも身につかないような、慣れない借り物のことばで祈る必要はありません。 自分のことばで、自分の気持ちを、単純に語りかければよいのです。 ちょうど、子供が親に向かって率直に語りかけるように。
三、祈りのことば(マタイ6章9−15節)
*<神に関する祈願> 祈りの模範としてイエスは今日『主の祈り』と呼ばれている祈りを教えられました。 『主が祈られた祈り』ではありません (罪のない主イエスが罪を告白する必要はない)。 もちろん、日々祈られるご自身の祈りがベースになっているのでしょうが、この祈り自体は 『主が教えて下さった、私たちの祈り』です。 『天にいます私たちの父よ』という呼びかけから始まり、全体は六つの祈願から構成されています。 1)前半の三つは、神に対する賛美(賛美を帰する祈り) 2)私たちの必要に関する祈願(後半の三つが、私たちの必要に関する 願い)。物 質的必要も霊的必要も、共に神に神に求めるべきです。 |