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作者 Administrator
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2007/01/24 水曜日 16:24:28 JST |
わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。 (ルカ 22章42節)
一、神のみこころを確認する(マタイ26章 36〜38節)
神の子イエスが十字架を前にして恐れ悲しまれたことは、私たちには信じ難い。 しかし、ルカ22章44節には、汗を血のしずくのように滴らせながら苦しみもだえて祈られたとあります。 ヘブル5章7節 に『自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ』たとあります。 私たちには信じ難くても、イエスが苦しみもだえながら祈られたことは確かなことなのです。
神の子であり常に聖霊に満たされた方であるイエスのこの苦しみを、私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。 これは(ヘブル4章15節) を教えるエピソードです。 イエスは、神のお立場で、何の恐れも不安も痛みもなく十字架に向かわれたのではありません。 人として私たちと同じ死への恐怖を味われたのです。 しかもイエスの死は個人的な死ではなく、私たちの罪を一身に背負って神の怒りをすべて引き受け、人類の代表者として経験する特 別な死であったので、その苦しみも特別なものでした。
二、神のみこころを選択する(マタイ26章 39〜43 節)
主イエスは苦しみつつ祈って、神のみこころを知り、従おうとなさいました。 このことは、聖霊に満たされるということがけっしてコンピユーター自動制御のような人生を約束するものではないこと教えています。 イエスでさえ、人生の節目ごとに祈りつつ神のみこころを判断なさったのです。 そして『わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように』なりますように (39節) と祈られたのです。 『主の祈り』の中ある『みこころの天になるごとく地にもなりますように』との祈りは、イエスご自身の祈りでもあったのです。
三、神のみこころに従う(マタイ26章44〜46節)
イエスは苦しみの中で祈り、十字架だけが神のみこころであって罪人を贖うための道がほかにないこと(『飲まずには済まされぬ杯』(42節) をはっきりと確認なさると、もはやひるむことをなさいませんでした。 何度励ましても眠ってしまう弟子たちを再度とがめだることもなさいませんでした。 イエスはこの弱い者たちのためにこそ死んでいかれるのであり、復活の主イエスによってすべてを教えていただき、聖霊の力を賦与されるのでなければ、人は真実に力強く立つことはありえないことをご存知じであったからです。
十字架を前にしてのイエスの苦しみは、イエスの死が本当に私たちに代わって神の怒りを負った死であることを保証するものです。 そして、代わって神の怒りを負った死であることを保証するものです。 そして、祈りつつ信仰生活を送らなければならないことを教えられるのです。 |