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作者 Administrator
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2007/01/24 水曜日 16:21:06 JST |
わたしは、世の光です。 (ヨハネ9章5節)
一、『生まれつきの盲人』(ヨハネ9章 1〜7節)
『生まれつきの』という言葉の中に、どうすることもできない人間の絶望の響きがこめられています。 当時の考えでは生来の身障者は、それ自体が罪の結果と見なされていました。 イエスの弟子たちも同じ考えだったので、イエスに『彼が盲目に生まれついたのは、だれかが罪を犯したからですか。 この人ですか。その両親ですか』 と尋ねました (2節)。 その考えを否定し 『神のわざがこの人に現れるためです。わたしが世にいる間、わたしは世の光です』(3、5節) と言われたイエスは地面につばきをし、つばきで泥を作り、その泥を盲目の目に塗ると 『行って、シロアムの池で洗いなさい』 と言われました (6、7節)。
愛に満ちた天の父が『遣わされた者(シロアム)』こそ、イエスご自身です。 『シロアムの池で洗いなさい』とは、イエスが『わたしを信じなさい』と言われたことに等しいのです。
二、目が見えるようになった人のあかし( ヨハネ 9章7〜 34 節)
生まれつきの盲人は、イエスの言葉に従い、シロアムの池で目を洗うと 『見えるようになって、帰って行った』(7節)。 イエスの言葉に単純に従った結果ですが、彼はイエスのことを「預言者」と認めても(17節)それ以上のことは知りませんでした。 それでも、これだけの恵みにあずかったのです。 この生まれつきの盲人は、とにかく預言者と信じてイエスにすべてを任せたのです。 神のことばをかたるために『神から遣わされた者』であるイエスは、預言者の中の預言者であられるのです。
目が見えるようになった人は、その事実を認めようとしない人々に、 『私は、ただ一つのことだけを知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです』 とあかしし (25節) 『神は、罪人のいうことはお聞きになりません。もしあの方(イエス) が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです』(31〜33節) と答えています。
三、イエスはご自身を示される。(ヨハネ9章35〜41節)
イエスが『神から遣わされた者』として盲人の目を見えるようにしたしるしは、それ以上のことを目指しています。 それはご自身をその人に示し、彼を真にご自身と出会わせることでした。 困難の中にあった彼を、イエスが見つけ出すようにして 『あなたは人の子(キリスト)をしんじますか』 と声をかけられ、彼が『その方はだれでしょう』 と問うと 『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです』 と言ってイエスははっきりご自身をしめされたのです。(35〜37節)。
このように彼 (私たち) に示されるイエスを 『主よ。私は信じます』 と告白して受ける信仰こそ、彼 (私たち) の心の目を開いて、見えなかった霊的な世界 (神の国) 見えるようにしていただける。イエスこそ闇の中を歩く人々を照らし、彼らの霊的開眼を可能にする『世の光』なのです。 |