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作者 Administrator
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2007/01/24 水曜日 16:15:55 JST |
神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 (エペソ 4章 32 節) キリスト教において、ゆるしは最も大切な教えです。 イエスは、赦しについて繰り返し語り、十字架においてすべての罪を赦されました。 ここでは、ペテロとの会話で赦しの無限であることを強調し、たとえ話で、赦さない者は赦されないことを説いておられます。 一、赦しは限りなく(マタイ18章 21、22節 ) ペテロは『七度まで赦すべきか』と質問しています。 ユダヤ教では『三回までは赦されるが、四回は赦されない』と言われていました。 七度までとは大変な譲歩です。 ペテロとしては、自らの寛容を精いっぱい強調したつもりだったのでしょう。 それに対して、イエスは答えて言われました。 『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います』 ユダヤ教では七がすでに完全数で、七度を七十倍することは、数えることのできない絶対無限を表します。 赦しは、数えることを超え、限りがないのです。 二、赦す者は赦される。(マタイ18章 23〜34節) そこで、イエスは、清算する王のたとえ話をされます。 『王』という語が、神と栄光の位にある人の子(イエス)を表すために用いられています (マタイ25章 31〜46節 参照)。 清算が始まると一万タラントの借りがあるしもベが連れてこられるが、一タラントは六千デナリ、一デナリは当時の労働者の一日分の賃金です。 したがって一万タラントは、現在のお金にすると、およそ六千億円になるでしょうか。 想像を超える金額です。 そのしもべは、それをすべてゆるされて帰るのですが、その途中で百デナリつまり百万円貸した仲間に出会ったのです。 赦されたから赦すかというと、そうではなく、首を絞めながら『借金を返せ』と責めたてたのです。 主人は怒って、その男を捕らえて投獄したのです。 赦すさない者は赦されず、赦す者は赦されるのです。 三、赦しの勧め(マタイ18章 35節) イエスは、このたとえ話をした後 『あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです』 と言われました。 ペテロをはじめ弟子たちに対して語られた戒めです。 『心から』は、回数を数えるのではなく『心を尽くして』という意味です(マタイ 22章37節)。 赦しは、弟子たちの間でも現実の問題であったし、赦しによって一つになるように繰り返し勧められています。 赦すことは、罪や誤りをあいまいにすることではありません。 罪はさばかれ、誤りは正されなければなりません。 しかし、それは神がなさることであり、私たちは罪深い人間であることを忘れてはなりません。 赦しは、人間関係にかかわることであって、自らも罪を赦された者として、他の人を赦すのです赦しによって和解し、和解によって人間関係が回復して、生活が整えられます。 私たちも、人間関係で傷ついて悩むことが少なくないが、赦しによって祝福された交わりを回復しましょう。 |