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わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。 (ルカ22=42)
Father, if you are willing, take this cup from me; yet not my will, but yours be done." (Luke 22 : 24 )
一、神のみこころを確認する(マタイ 26章36ー38節) 神の御子イエスが十字架を前にして恐れ悲しまれたことは、私たちには信じ難い。 しかし、ルカ22章44節には、汗を血のしずくのように滴らせながら苦しみもだえて祈られたとあり、ヘブル 5章7節では (おそらくこの時のことを)『自分を死から救うことのできる方に向かって大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ』とあります。 私たちには信じ難くても、イエスが苦しみもだえながら祈られたのは確かなことです。 神の子であり常に聖霊に満たされていたイエスのこの苦しみを、私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。 これはイエスが『罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みにあわれた』(ヘブル4章15節) ことを教えるエピソードです。 イエスは、神のお立場で、何の恐れも不安も痛みもなく十字架に向かわれたのではありません。人として私たちと同じ死への恐怖を味わわれたのです。しかもイエスの死は個人的な死ではなく、私たちの罪を一身に背負って神の怒りをすべて引き受け、人類の代表者として経験する特別な死だったので、その苦しみも特別なものでした
二、神のみこころを選択する(マタイ 26章 39ー43節 )
主イエスは苦しみつつ祈って、神のみこころを知り、従おうとなさいました。 このことは聖霊に満たされるとが決してコンピュター自動制御のような人生を約束するものではないことを教えています。イエスですら、人生の節目ごとに祈りつつ神のみこころを判断なさったのです。 そして『わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように』なりますように (39節) と祈られたのです。『主の祈り』の中にある「みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6章10節) との祈りは、主イエスご自身の祈りであったのです。 三、神のみこころに従う(マタイ 26章44−46節)
イエスは苦しみの中で祈り、十字架だけが神のみこころであって、罪人を贖うための道がほかにないこと(『飲まずには済まされぬ杯』42節)をはっきり確認なさると最早ひるむことはありませんでした。何度励ましても眠ってしまう弟子たちをもう一度とがめることはなさいませんでした。 イエスはこの弱い者たちのためにこそ死んでいかれるのであり、復活の主イエスによってすべてを教えていただき、聖霊の力を賦与されるのでなければ、人が真実に力強く立つことはありえないからです。
十字架を前にしてのイエスの苦しみは、イエスの死が本当に私たちに代わって神の怒りを背負った死であることの保証です。 そして、私たちもまた、日々『みこころがなりますように』と祈りつつ信仰生活を送らななければならないことを教えられます。
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