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だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (第二コリント5章17節) 17Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone, the new has come! (2Corinthians 5 : 17 ) 礼拝メッセージMP3
一、弟子になったマタイ(ルカ5章27、28節)
マタイはガリラヤ出身で、職業は税金を取り立てる役人でした。取税人は、ローマ帝国の植民地政策の片棒をかついでいるということ、また不正な徴収金を取って私腹を肥やしているということから、ユダヤ人の社会では、軽蔑の目で見られていました。そればかりか強盗と同じように見なされ、パリサイ人からは、信仰をもたない無学の者、異邦人と同じ者と見なされていたのです。 経済的には何不自由のない生活をしていたマタイも、自己の罪と孤独に苦しんでいたと思われます。 そんな思いを抱いて収税所に座っていたマタイを、主イエスは招かれました。イエスの招きの言葉と、マタイの『何もかも捨てて従った』という召命の形は、ペテロやヨハネと同じです。 イエスの招きのことばは短いものですが、その前に主は多くのことばを用いて、罪人を救う神の無差別の恵みや弟子となることの必要を説明したはずです。だから今、マタイは主の招きに答えて、収入の多い職業を捨て、主の弟子となることを選んだのです。 ペテロもヨハネも、自分のものを『何もかも捨て』ましたが、彼らの場合いつでも、もとの仕事に戻ることができました。しかし、マタイの仕事は、一度捨てれば、再び戻ることのできないものでした。彼はイエスに生涯を賭ける決断に踏み切ったのです。
二、罪人を招かれる主(ルカ5章29−32節) マタイにとって、これほど親しく声をかけられたことがこれまであったでしょうか。いつも非難を受けていた彼は、好意をもって招いてくださる主にただただ感謝するばかりでした。 そこで、この喜びを、一人でも多くの人に知らせ、共に喜んでもらうため、彼は盛大なパーティを開きました。 このパーティは、マタイにとって、これまでの古い自分との別れと、新生活への門出を記念する会であり、自分の救いを人々に公言する最初のあかし会となりました。 ところが、パリサイ人と律法学者たちはキリストを非難しました(30節)。宗教的には異邦人であり、社会的にも罪人である者と共に食事をするなど、とても考えられなかったからです。 彼らは宗教家であるにもかかわらず、マタイの救いについて関心がありませんでした。それよりも、自分たちの考えの正しさを通すことの方が大切だったのです。 そこでイエスは答えて『医者を必要とするのは病人です』と告げられ、ご自身が罪人を招いて悔い改めさせるためにこの世に来られたことを教えられました。 この世で罪人でない人は誰もいません。自分が罪人であると悟ったマタイや他の取税人や遊女たちは『罪がない』と思っているパリサイ人たちよりも先に赦された(救われた)のです。
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