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わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 (ヨハネ6章35節 ) "I am the bread of life. He who comes to me will never go hungry, and he who believes in me will never be thirsty. ( John 6 : 35 ) 礼拝メッセージMP3
一、物質的必要を満たされたイエス(ヨハネ6章1一15節) イエスは、町を離れてご自身のもとに来た群衆が空腹になったのをあわれまれて少年の持っていた五つのパンと小さな魚二匹から食事を提供なされました。こうした奇跡をヨハネの福音書では『しるし』とよばれています。 イエスが神ご自身であり、万物の支配者であることを、自然界の法則をときには特別に崩すことによって証拠だてようとされたのです。 人々は、この奇跡に触れて、イエスこそ旧約に預言された救い主(メシヤ)だと考えました。この考えは正しいにしても適用が間違っていました。ローマ帝国に長い間支配されていたユダヤ人は、政治的・現世的解放者を期待したのです。人々には奇跡の物質的側面しか見えなかったのです。
二、霊的必要を満たされるイエス(ヨハネ6章35−51節) 人々の期待とは違い、イエスの奇跡はそれ自体が最終目的ではなかったのです。ことばで説明されるイエスの自己紹介のいわば視聴覚教材、として奇跡を行われたのです。パンの奇跡は、それに続く『わたしがいのちのパンです』(35節) と組み合わされて初めて正しく理解出来るのです。
『わたしがいのちのパンです』ということば、まず『いのちの』と、単なる肉体の糧とは違います。もっと本質的な食べ物があることに注目させます。 『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』(マタイ4章4節)とあるように、肉体的必要の充足だけでは人は生きられません。造り主である神と結び付いて初めて本物のいのちを得ることができるのです。
神と結び付かない人生は、どんなに満足すべきこと(金銭、地位、名誉、家族、趣味その他)があっても、本当に満たされません。心に空間がぽっかり空いた人生です。
三、いのちのパンそのものであるイエス(ヨハネ 6章35節) 『 わたしがいのちのパンです』ということばは、さらにイエスご自身が『パン』であられることを教えています。 イエスは、単に人々に霊的必要を教える教師ではありません。あるいは、人々に神を紹介する伝道者でもありません。いのちのパンそのもの、神ご自身であられるのです。 食べるとは=食物としてのパンは、当然食べるものです。イエスは『食べる』(飲むという行為も含めた『飲食』に当たることを『来る』『信じる』と表現なさいました(35節)イエスのもとに『来る』とは、今日では、聖書を通して語られるイエスのことばとお姿に接すること、つまり聖書を読み、礼拝のメッセージに耳を傾ける、ということです。その上で、イエスを『信じる』必要があります。 イエスが、いのちのパンを紹介する教師であると信じるだけではなく、いのちそのものであられると信じるのです。
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