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キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らか示されました。 ( 第2テモテ1章10節d )
Christ Jesus, who has destroyed death and has brought life and immortality to light through the gospel.( 2Timothy 1: 10b)
一、病気の娘の父親(マルコ5章21一24節) (Mark5 : 21 ~ 24) 会堂管理者という、社会的に尊敬される地位にあるヤイロという人がいました。 ヤイロは、せっぱつまった気持ちでイエスのところにやって来ると、足元にひれ伏し、死にかけている病気の娘をいやしていただきたいとお願いしました。この娘はひとり娘で(ルカ8章42節) で、しかも十二才という若さでした。将来に望みをかけて育ててきた、愛するひとり子が 死に直面していることほど、悲しく、つらいことはありません。会堂管理者としての地位も、富も、死に対しては何の力もありません。ヤイロは、娘の病気さえいやされるなら、すべてのものを投げ出してもよいと思ったことでしょう。 彼はどうすることもできない絶望的な思いの中で、最後の望みをイエスにかけて、死にかけた娘を家に置いたままやって来たのでした。 今やイエスの名声は非常に高く、どこに行っても群衆がイエスのもとに集まって来ました。けれどもひとりひとりを大切にするイエスは、ヤイロの熱心な願いを聞き入れて、彼と一緒に娘のところヘと出かけられました。
二、悲しい知らせ(マルコ 5章35−37節) ( Mark 5 : 35 ~ 37) ところが、途中の道でイエスは思わぬ出来事に出会い時間をとられていると、ヤイロの家から使いが来て、ヤイロの娘が亡くなったことを知らせました。そこで彼は、娘が死んでしまえば、もうイエスに来ていただいてもどうにもならないと思いました。 イエスを信じない者にとって、死は最後です。ヤイロはイエスを信じていましたが、今の彼は希望も絶え、心は悲しみで満ちていたに違いありません。その時、イエスはヤイロに『恐れないで、ただ信じなさい』と励まされました。 罪が赦されないままで死ぬことは、永遠の滅びに投げ込まれることであり、これほど恐ろしいことはありません。しかしイエス・キリストは、永遠の滅びにつながる罪の支配から人間を解放するために、私たちの身代わりになって死んで下さったのです。 このイエスが語られる御言葉にのみ、真の慰めと励ましがあるので、私たちは信じ続けることができるのです。
三、生き返った娘『タリタ・クミ』(マルコ5章38−43節) ( Mark 5 : 38 ~ 43 ) ヤイロの家ではすでに、家族と共に近所の人々や、雇われた泣き女が大声で泣き叫び、嘆き悲しんでいました。イエスは家の中に入られると『子供は死んだのではない。眠っているだけである』と言われました。 これは決して、人工呼吸や心臓マッサージ息を吹き返すことのできる仮死状態を意味しているのではありません。子供は完全に死んだのです。イエスのことばを聞いた人々は、イエスがまるで藪医者であるかのようにあざ笑いました。 イエスが言われたことは、子供は死んでしまったけれども、イエスによって生き返らせられるので、それは一時的な眠りにすぎない、という意味なのです。 イエスはそのあかしとして、完全に死んでしまった娘に『タリタ・クミ』と呼びかけ手をとって起き上がらせました。 ここに、イエスの偉大な力が見られます。死の力から人を救い出す力です。十字架に死んでよみがえられたイエスを信じる者にとって、死はすべての終りではなく、永遠のいのちに目覚める眠りなのです。この素晴らしいイエスを救い主として崇め賛美しましょう。
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