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私がいのちのパンです。 (ヨハネ 6章35節) 一、イエスは弟子たちの信仰を試される(ヨハネ6章1−9節)
イエスの奇跡のわざについてのうわさは広く伝わり、大勢の人々がイエスのそばに押し寄せてきました。イエスは、その群衆をご覧になり、弟子の一人である ピリポに質問をなさいました。5節を読みましょう。イエスは、私たちの必要のために実に細やかに配慮してくださる方なのです。主イエスは、ご自分につき従 う人々の食事の心配をなさったのでした。
そこには男性だけでも五千人いたと記されています。女性や子供を数に入れると、きっと1万人を軽く超えていたに違いありません。これだけの人々の空腹を 満たすことは、少々の努力をしたところで、私たち人間には不可能なことです。弟子たちも、最初からまったくあきらめた態度でイエスの質問に答えています。 七ー九節を読んで下さい。弟子たちは、人間の目から見て、ごく当たり前の常識的な判断をしたのです。 しかし、弟子たちは、とても大切なことを忘れていました。自分たちの目の前におられる方は神ご自身であるということ、そして、神である主イエスには不可 能なことは何一つないということです。イエスは、そのことを弟子たちに気づかせるために、あえてあのような問いかけをなさったのでした。
二、豊かに用い、養われる主イエス(ヨハネ6章10ー15節)
イエスは、少年がささげたわずかなパンと魚を用いて、不思議な方法で、そこに集まっている人々が満腹になるまで十分に食べさせて下さいました。それだけではありません。残ったパンをかき集めると、十二のかごがいっぱいになるほどだったのです。
私たちはしばしば、自分に与えられた物や環境や能力を眺めて、自分にはこれっぽっちしかない、これでは何もできないと嘆くことはないでしょうか。少年が 手持ちのわずかな食べ物をイエスに役立てていただこうと差し出したように、私たちも、わずかに思える自分の力や能力を主の前に差し出すならば、私たちが驚 くような方法で、主がそれを豊かにし、大きく大きく用いてくださいます。
三、イエスは『いのちのパン』である(ヨハネ 6章22−40節)
その次の日、対岸に向かったイエスを群衆は追いかけました。彼らはイエスをただ空腹を満たしてくださる方としか見ていませんでした。そんな彼らに、主イエスは『永遠のいのちに至る食物』(27節)についてお話になりました。もちろん身体の栄養は大切です。
で も、それだけ満たされても私たちは幸せにはなれません。本当の喜び、生きがい、満足というものは、私たちの魂が満たされてこそ、得られるものです。私たち の魂の渇きを本当に満たしてくださるのは『いのちのパン』である主イエスご自身なのです。34、35節を読みましょう。私たちも、主イエスのもとに行き、 この方を信じましょう。 そうするなら、私たちは本当の満足を頂くことができるのです。
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