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作者 Administrator
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2007/01/25 木曜日 23:37:04 JST |
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『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』 (マタイ3章17節)
一、バプテスマのヨハネの登場(マタイ3章1−6節)
イエスが、人々の前に公けに姿を現される少し前に、ヨハネがユダヤの荒野で教えていました。 ヨハネはイエスの親戚で、誕生する前から、預言者としての使命を与えられていました (ルカ1章17節)。 その使命とは、イエスがおいでになる前に、人々が神の前に罪を認め、旧約聖書に約束された救い主を待ち望むように導くことでした。 大勢の人々がヨハネの言葉に心動かされ、遠くから訪れて、罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けていました。
二、主イエスのバプテスマ(マタイ3章13ー15節)
当時 (B.C・27、28年頃) 異邦人がユダヤ教に改宗する時、水の中で身体を洗うバプテスマの儀式が行われていましたが、ヨハネのバプテスマは、そのような従来のものとはまったく意味が異なったものでした。
ヨハネは人々に、神の前にへりくだって罪を悔い改め、新しく神に従う生活に入るためのしるしとしてバプテスマ(洗礼)を授けましたが、これは異邦人だけではなく、ユダヤ人も受けなければならないものでした。 そのことによってヨハネは、すべての人が神の前には罪人であることをはっきり示したのです。 イエスが、ガリラヤ地方から来てヨハネからバプテスマを受けようとされた時、ヨハネが断ったのも、無理はありません。 神の子であるイエスは罪のない方なのですから、罪を悔い改める必要も、バプテスマを受ける理由もありません。 しかしイエスは、あえてお受けになりました。 15節を読みましょう。
救い主として私たちの罪の身代わりになるためには、罪を除いて、完全に私たちと同じ人間としての立場をとらなければならないことを、イエスは御存知だったのです。 ですから、人間にとってバプテスマを受けることが正しいことなら、御自身にとっても正しいとされたのでした。 (ヘブル2章17節参照)イエスはバプテスマをお受けになることにより、完全に神であると同時に、完全な人間の立場に身を置かれ、私たちの罪の身代わりとしての資格が十分にあることを示されたのです。
三、神の証言(マタイ 3章16、17節、ヨハネ1章19−35節)
イエスがバプテスマを受けられると御霊がはとのように下られ 『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』と天から神の御声が聞こえました。 マタイ3章16、17節を読んでください。 バプテスマをお受けになった時、イエスは、私たちの救いのために贖いの死を受け入れる決心を明らかにされたのです。 神は私たちを深く愛しておられるので、イエスの決心は、神のみこころにかなうことでした。 神は、イエスの尊い使命を喜びをもって高らかに証言されたのでした。 ヨハネ1章32−34を読みましょう。
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最終更新日 ( 2007/01/25 木曜日 23:38:40 JST )
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